留魂録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 01:11 UTC 版)
『留魂録』(りゅうこんろく)は、幕末長州藩の思想家である吉田松陰が、1859年(安政6年)に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書である。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となった。
概要
![]() |
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年9月)
|
1858年(安政5年)、松陰は藩に対し、幕府の老中であった間部詮勝暗殺計画のために武器の提供を申し入れた。驚いた藩の重臣たちは松陰を野山獄に収監し、翌5月、幕府に上申のうえで江戸に向けて松陰の身柄を転送した。
幕府の評定所で、悲劇的なボタンの掛け違えが起こる。上記の経緯により松陰自身は当然幕閣も松陰の計画を承知しており、その嫌疑取調べのために東送されたものと思い込んでいた。しかし事実は異なっていた。幕府が松陰を召喚した目的は、安政の大獄で召喚された梅田雲浜との交友などの嫌疑についての取調べであった。よって、暗殺計画には一切触れることなく、松陰の評定所での詮議は終了し、長州藩邸に戻ることを許されようとしていたのである。
しかし、自身が萩の野山獄に投獄された経緯から、松陰は老中暗殺計画を自白するという挙に出たため、一転して嫌疑は重罪に変わり、小伝馬町に投獄される。その後の取調べで自身の処刑を察知した松陰が、10月25日から26日にかけて書き上げたのが本書である。
解題
![]() |
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年9月)
|
獄中の囚人である松陰が門弟たちに宛てた書物であるため、何とか塾生たちに伝わるようにと、松陰は直筆の書を2通作成している。1通は、松陰の処刑後、門弟の飯田正伯の手に伝わり、萩の高杉晋作らの主だった塾生に宛てて送られた。こちらの本は、門弟たちの手によって書写され、今日に伝わるものもあるが、正本自体は行方不明となっている[1]。
今日、萩の松陰神社に伝わる本書は、もう1通の方の正本である。これは松陰と牢中で起居をともにした沼崎吉五郎が持していたものである。沼崎は、小伝馬町の牢から三宅島に遠島となり褌(ふんどし)の中に隠したまま携え、そこで維新を迎える。1874年(明治7年)に沼崎は東京に戻り、その後、1876年(明治9年)に、沼崎は松陰門下ゆかりの人物で、神奈川県権令となっていた野村靖を訪れた。そこで、初めて別本の存在が明らかになったのである[1][2]。
なお、松陰は「留魂録」とともに、「諸友に語ぐる書」において、門人たちに「・・・我れを哀しむは、我れを知るにしかず。我れを知るは、吾が志を張りてこれを大にするにしかざるなり」と書いている。
内容
- 全十六章
- 冒頭の句 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士」
- 最後の句 「かきつけ終わりて後
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄昏書す 二十一回猛士」
参考文献
![]() |
この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。
|
- 古川薫全訳注『吉田松陰 留魂録』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4-06-159565-2
- 松浦光修『新訳 留魂録』(PHP研究所、2011年) ISBN 4-56-980002-5。新書:副題は吉田松陰の「死生観」
- 奈良本辰也『吉田松陰著作選 留魂録・幽囚録・回顧録』(講談社学術文庫、2013年) ISBN 4-06-292202-9
脚注
- ^ a b “沼崎吉五郎と飯田正伯に託された2通の留魂録(吉田松陰の遺書) - 人物事典 幕末維新”. 幕末・維新風雲伝 (2015年3月14日). 2023年12月3日閲覧。
- ^ “留魂録(りゅうこんろく)沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)と野村靖(のむらやすし)”. www.junk-word.com. 2023年12月3日閲覧。
外部リンク
- 留魂録(原文)テキスト形式 - 留魂録の原文(ルビ付き)、用語解説、留魂録についての解説(テキスト形式)。
- 留魂録(原文)PDF形式 - 留魂録の原文(ルビ付き)、用語解説、留魂録についての解説(PDF形式)。
- 『留魂録』:新字旧仮名 - 青空文庫
- 留魂録に見る吉田松陰の死生観
留魂録(りゅうこんろく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/25 04:41 UTC 版)
「佐藤新平」の記事における「留魂録(りゅうこんろく)」の解説
3月27日より新平が桶川を出たとされる4月5日まで約30ページにわたって記録された日記(遺書)である。最終的に遺書が書き込まれている。1ページ目には「軍人勅諭」がかかれ、2ページ目より3月27日付の日記が始まる。 「3月27日 待望の日は遂に来た。特別攻撃隊の一員として、悠久の大儀に生く。日本男児として、又、空中戦士として、之に過ぐる喜びはなし。ありがたき御世に生まれ、そして育れし厚恩、必死中、唯これを以て報いんのみ。 思えば、大空に志し、翼の生活に入り、早六歳、昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして漸く希望入れらる。神我を見捨て給わず。六歳に亘り、練り、鍛へし腕に十二分の自身あり。唯、健康に十分注意なし、轟沈の訓練に励まんのみ。 父上、母上様も御喜び下さい。軍人としての修養は只立派な死に場所を得るに有ります。最后まで操縦桿を握って死ねる有難い死場所得る事が出来、新平幸福感で一杯です。亡き兄もきっと喜んで呉れる事でせう。これから轟沈の日まで日誌を続けます。遺書とて別に書きません。死生有命 不足論男児従容 散大空」 3月30日頃より、友人知人に挨拶の為か、外出している様子が伺える。 「3月30日 此の所、毎日快晴の日が続く。午前八時、灰山に飛行機受領に行く。一足違えで仲元猛ちゃんに会いかねる。演習は離着陸・・・・・・。出撃の予定が早くなりしとの事で、又午前、午後の演習となる。 ピストも任務が任務なので非常に活気あり。十六時半、会食の為、川越市に行く。隊長以下十二名、和気藹々お互いに胸襟を開き合い、愉快な一夕を送る。」 「4月2日 午前、立川へ夜間装備に行く。沢山の見送りを受け、壬生飛行場へ生地着陸に行く。館林時代の村松、大沢少尉に会う。他二十名位、なつかしさ。又、谷口曹長には実に那須以来三年ぶりにて会う。此処でも大勢の見送人に送られ感無量なり。十六時頃より一日の外泊許可になり、家へもかえれず館林へ行く。家富の小父さんと一献傾け十一時になり、遂、小父さんの家に泊る。」 「4月3日 五か月ぶりで館林教育隊を尋ねる。行員学生諸氏皆昔の顔ぶれなり。皆に壮途を祝さる。松沢、佐藤学生の家で馳走になり早川の家へもお別れに行く。館林は在住一年九か月、一番長く在住せし所なれば世話になりし家も一番多し。斉藤本屋の小母様の所でも御馳走になり、わざわざ駅まで送って下さり、涙を流されたのには感謝の言葉もなし。思えば館林在住期間、いつも特別の歓待を受けた小母様だった。両親の如く面倒を見て呉れた小母様、御恩の数々唯大きな戦果で報ゆるのみ。松沢学生、斉藤歯科医の小父さん、家富さんから過分の餞別を頂戴する。十五時館林出発、東京華岳叔父様の所へ行く。頂度郷里からかえられた所で。種々、話に花を咲かす。九時頃まで飲み帰る。お父さん、お母さん、おやすみなさい。」 この後、荷物(遺品)を送る、父母への感謝の言葉、壮行会の事、遺書等の手記があり、辞世の句で結ばれている。4月5日の12時出陣とあり、留魂録が終わっている。 新平ら12名は同日夕方に各務原に到着、翌6日朝に小月に向かい、同じように7日朝に知覧に向かった。以降9日間、知覧での動向は不明ながら、公式記録の戦死日である昭和20年4月16日には沖縄に出撃したとされる。
※この「留魂録(りゅうこんろく)」の解説は、「佐藤新平」の解説の一部です。
「留魂録(りゅうこんろく)」を含む「佐藤新平」の記事については、「佐藤新平」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 留魂録のページへのリンク