孫峻の専横
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:39 UTC 版)
諸葛恪の死後も、結局は孫峻が専横を極めただけで、多くの者が不満を懐いたという。 五鳳元年(254年)秋、孫英によって孫峻暗殺計画が立てられたが、この事件は未然に発覚し、孫英は自殺した。 五鳳2年(255年)正月、魏の毌丘倹・文欽が淮南で反乱を起こし、軍勢を率いて西進し、楽嘉で魏の司馬師と戦った。同年閏正月9日、孫峻は寿春の襲撃を図り、呂拠と留賛を率いて北上したが、東興まで来たところで文欽らが敗れたという知らせが入った。同年閏正月19日、橐皋まで進んだところで、文欽が数万の敗残兵とともに降伏してきた。孫峻らは諸葛誕の軍が寿春を制圧したことを知ると、撤退を開始した。同年2月、高亭において魏の曹珍と遭遇したため、これを破った。一方で、病身のため先に撤退していた留賛は、菰陂において諸葛誕の将軍蔣班と遭遇し敗れ、将軍の孫楞・蔣脩らと共に殺害された。 同年3月、朱異に命じて安豊を攻撃させたが、陥落させることはできなかった。同年秋7月、孫儀・張怡・林恂らが孫峻暗殺を計画したが発覚し、孫儀は自殺、林恂らは処刑された。 衛尉の馮朝に命じて広陵で築城させた。また、将軍の呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任命した。 同年12月、太廟(孫権の廟)を建てた。 太平元年(256年)孫峻は文欽の策により、魏の征伐を計画し、8月、先遣隊として文欽・呂拠・劉纂・朱異・唐咨の軍を動員し、江都から淮水・泗水の流域に侵攻させた。だが9月14日、孫峻は急死し、その従弟の孫綝が侍中・武衛将軍・領中外諸軍事に任命された。
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