毌丘倹・文欽の乱
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毌丘倹・文欽の乱(かんきゅうけん・ぶんきんのらん)は、中国三国時代の魏の正元2年(255年)に、毌丘倹と文欽が司馬師に対して起こした反乱であり、寿春三叛と総称される3つの反乱のうちの第二の反乱である。
- ^ 『三国志』巻四 三少帝紀:[正元]二年春正月乙丑,鎮東将軍毌丘倹・揚州刺史文欽反。戊寅,大将軍司馬景王征之。癸未,車騎将軍郭淮薨。閏月己亥,破欽於楽嘉。欽遁走,遂奔呉。甲辰,安風津都尉斬倹,伝首京都。
- 1 毌丘倹・文欽の乱とは
- 2 毌丘倹・文欽の乱の概要
毌丘倹・文欽の乱
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詳細は「毌丘倹・文欽の乱(中国語版)」を参照 司馬懿の死後、その子の司馬師が後を継ぎ、権力を掌握した。254年、中書令の李豊・太常の夏侯玄・国丈(中国語版)(曹芳の皇后の父)・西郷侯張緝らは、司馬師を打倒することを企図したが、計画が露見し、李豊・夏侯玄・張緝らは、全て殺害された。李豊らが殺害されたことに対して曹芳が動揺したため、司馬師は、不満を生じた。その結果、司馬師は、数か月後に、曹芳を廃位して、曹髦を即位させた。李豊らの誅殺と、曹芳の廃位は、寿春に駐留していた鎮東将軍の毌丘倹と揚州刺史の文欽を甚だ不安にさせ、かれらも連座することになるのではないかと恐れた。そのため、毌丘倹の子の毌丘甸は、挙兵して曹氏の朝廷を守護することを勧め、毌丘倹と文欽は、司馬師に対して反旗を翻さなければならないと決心した。 255年正月乙丑日(2月5日)、毌丘倹と文欽は、司馬師を討伐するため寿春で挙兵し、項城に進軍した。これが毌丘倹・文欽の乱である。呉は、毌丘倹の反乱を知った後、丞相の孫峻に、呂拠と留賛ともに兵を率いて寿春に向かわせ、毌丘倹を支援させた。司馬師は、自ら討伐軍の兵を率いるとともに、荊州刺史の王基を派遣して反乱軍に対抗させ、先行して南頓を占領させた。その後、諸葛誕・胡遵及び鄧艾は、兵を率いて司馬師と合流した。司馬師は、攻撃しないよう諸軍に対して命令しており、毌丘倹と文欽は進攻できず、また、撤退時に寿春を襲撃されることを恐れた。軍中の淮南の将兵の家族が北方にあったため、将兵の心は崩壊してしまい、ただ、新たに帰属した農民のみが命令に従っていた。この時、鄧艾は楽嘉に駐屯しており、毌丘倹は、鄧艾の兵が弱小であると見るや、文欽を派遣して鄧艾を攻撃させた。しかし、文欽が到着すると、司馬師が大軍を率いて到来したことがわかり、その結果、文欽は撤退した。司馬師は、左長史の司馬班を派遣して追撃させた。文欽は敗走し、文欽の子の文鴦が奮戦してようやく退却することができた。この時、殿中人の尹大目は、文欽を追って降伏を勧めたが、文欽に拒絶された。毌丘倹は、文欽が敗退し、夜陰に乗じて逃走したことを知った。その他の軍勢は崩壊し、毌丘倹は、慎県に逃れ、平民の張属に射殺された。毌丘倹の首は、洛陽に送られた。文欽が項城に戻ったころ、大軍は崩壊し、寿春もまた諸葛誕に占領されており、文欽は、呉に逃亡した。孫峻が東興に到着した時、諸葛誕が寿春を占領したことを知ったので、退却した。諸葛誕は、部将の蔣班(中国語版)を派遣して追撃し、留賛を斬殺した。
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