司馬氏の台頭
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嘉平元年(249年)1月6日、曹芳が明帝の陵墓に参拝するために高平陵に向かった隙を突き、司馬懿が洛陽を制圧し曹爽は降伏する。(高平陵の変)その後曹爽一族、一党を追放・誅殺したため、これ以降の魏は事実上司馬氏の支配するところとなった。 嘉平3年(251年)、王淩が曹彪を擁してクーデターを図るが露顕し、王淩は自殺、曹彪も死罪となる(王淩の乱)。この頃司馬懿が死去し、司馬師が実権を握った。 嘉平6年(254年)、李豊・夏侯玄・張緝(張皇后の父)らが司馬師を追放しようと計画するが失敗し、関係者は全て誅殺された。張皇后を廃し、新たに王皇后を立てた。 この事件により司馬師は皇帝の廃位を計画し、既に成人しているのに政務を看ずに色欲に耽っているという理由で曹芳は廃位され、斉王に引き戻された。時に23歳であった。廃位後洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送った。その後曹髦が皇帝に即位する。 泰始元年(265年)、晋が成立すると、邵陵公に降格された。泰始10年(274年)に43歳で死去した。
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司馬氏の台頭
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呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年、倭の卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武将・毌丘倹が高句麗首都を陥落させている。 239年、曹叡は34歳の若さで崩御し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺害し、権力を掌握した(高平陵の変)。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。 その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと司馬昭に受け継がれる。この間、255年の毌丘倹の乱(毌丘倹・文欽の乱)や257年の諸葛誕の反乱(諸葛誕の乱)などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった。 呉では、孫権が皇太子の孫和と孫和の弟の孫覇の両人をほぼ同等に処遇したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、吾粲が処刑され、陸遜が憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、250年、孫和が廃太子され、七男の孫亮を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された(二宮事件)。 252年に孫権は崩御し、孫亮が10歳で皇帝となると、太傅・大将軍の諸葛恪が呉の政権を握った。諸葛恪は252年に孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり呉の政権を握った。 孫峻は自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。256年に孫峻が病死すると、孫峻の従弟の孫綝が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失敗に終わった。孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立され皇帝となった。孫休は孫綝がクーデターを計画していると聞くと、張布・丁奉らと対策を練り、孫綝を捕らえ、処刑した。 蜀漢では、255年に姜維が魏を攻めて魏の雍州刺史の王経に大勝したが、256年の段谷の戦いで大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。258年以降、蜀漢では宦官の黄皓が政治を乱し、皇帝の劉禅は遊び呆けていた。蜀漢を滅ぼす機会と見た司馬昭は鍾会・鄧艾ら20万の軍勢を派遣して、263年に成都を開城させ蜀を滅ぼした(蜀漢の滅亡)。 264年、鍾会が姜維と共に益州で独立しようと反乱を起こしたが、失敗し、混乱の中で鍾会・鄧艾ら魏将や姜維ら蜀将が討たれた。この混乱に乗じて呉の歩協・陸抗らが羅憲が守る永安城を攻めたが、羅憲は永安城を堅守し、魏の胡烈が羅憲の援軍に派遣されると、呉軍は撤退した。 蜀の滅亡後に魏に降伏した霍弋は南中都督に任じられ、呉の交州の交阯郡・九真郡・日南郡を制圧した。
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