司馬氏の台頭とは? わかりやすく解説

司馬氏の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:12 UTC 版)

曹芳」の記事における「司馬氏の台頭」の解説

嘉平元年249年1月6日曹芳明帝陵墓参拝するために高平陵に向かった隙を突き司馬懿洛陽制圧し曹爽降伏する。(高平陵の変その後曹爽一族一党追放誅殺したため、これ以降の魏は事実上司馬氏支配するところとなった嘉平3年251年)、王淩曹彪擁してクーデターを図るが露顕し王淩自殺曹彪死罪となる(王淩の乱)。この頃司馬懿死去し司馬師実権握った嘉平6年254年)、李豊夏侯玄張緝張皇后の父)らが司馬師追放しよう計画する失敗し関係者全て誅殺された。張皇后廃し新たに王皇后立てた。 この事件により司馬師皇帝廃位計画し、既に成人しているのに政務を看ずに色欲耽っているという理由曹芳廃位され斉王引き戻された。時に23歳であった廃位後洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送ったその後曹髦皇帝即位する泰始元年265年)、晋が成立すると、邵陵公に降格された。泰始10年274年)に43歳で死去した

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司馬氏の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)

三国時代 (中国)」の記事における「司馬氏の台頭」の解説

呉軍撃退し諸葛亮の北伐防いだ魏の司馬懿は、その軍功権力から周囲警戒されるようになる。この時期遼東には公孫氏勢力独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央司馬懿に対して討伐命じ238年、これを滅ぼした。その翌年239年、倭の卑弥呼特使が魏に訪れた魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の高句麗国境接するようになり、のちの244年には武将毌丘倹高句麗首都陥落させている。 239年曹叡34歳若さ崩御し養子曹芳が魏の皇帝となった曹叡死去するに際して司馬懿皇族曹爽曹芳後見託したが、後に司馬懿曹爽とその取り巻き権力奪われ閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿249年息子司馬師と共にクーデター起こして曹爽一派殺害し権力を掌握した(高平陵の変)。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主曹操倣って帝位簒奪行わないまま251年死去したその後権力司馬師受け継がれ司馬師が死ぬと司馬昭受け継がれるこの間255年毌丘倹の乱(毌丘倹・文欽の乱)や257年諸葛誕反乱諸葛誕の乱)などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱何度起きるが、司馬氏対す有効な打撃力とはなり得ず鎮圧されていった諸葛誕反乱は、魏軍26万と諸葛誕呉軍201年にわたり激突した大戦であった。 呉では、孫権皇太子孫和孫和の弟の孫覇両人をほぼ同等に処遇したため、立太子期待する孫覇派と廃太子防ごうとする孫和派の対立招いた孫権決断欠いたため、対立泥沼化し、吾粲処刑され陸遜憤死するなど、国力衰退させた。この問題は、250年孫和廃太子され、七男の孫亮皇太子立てることで決着した孫覇自害命じられ多く孫和派と孫覇派の人物誅殺されたり追放された(二宮事件)。 252年孫権崩御し孫亮10歳皇帝となると太傅大将軍諸葛恪が呉の政権握った諸葛恪252年孫権死後狙って侵攻してきた魏の胡遵諸葛誕大勝し声望を得るが、翌年の魏への侵攻失敗終わり疫病多く兵士亡くなった。これで落ちた声望回復するために国内豪族勢力押さえ込んで中央集権志すが、これに不満を持った皇族孫峻によるクーデター起き諸葛恪殺され孫峻丞相となり呉の政権握った孫峻自分権勢のためだけに独裁政治行った256年孫峻病死すると、孫峻従弟孫綝権力握り孫峻同様の独裁政治行った257年、魏で諸葛誕反乱起きると、諸葛誕手を結んで魏を攻めるが、失敗終わった孫綝影響力低下したことを見た孫亮孫綝排除を図るが、逆に孫綝により廃位され孫権の六男の孫休代わりに擁立され皇帝となった孫休孫綝クーデター計画していると聞くと、張布丁奉らと対策練り孫綝捕らえ処刑した蜀漢では、255年姜維が魏を攻めて魏の雍州刺史王経大勝したが、256年段谷の戦い大敗し蜀漢国力疲弊させた。258年以降蜀漢では宦官黄皓政治乱し皇帝劉禅遊び呆けていた。蜀漢を滅ぼす機会見た司馬昭鍾会鄧艾20軍勢派遣して263年成都開城させ蜀を滅ぼした蜀漢の滅亡)。 264年鍾会姜維と共に益州独立しよう反乱起こしたが、失敗し混乱の中で鍾会鄧艾魏将姜維蜀将討たれた。この混乱乗じて呉の歩協陸抗らが羅憲が守る永安城を攻めたが、羅憲永安城を堅守し、魏の胡烈羅憲援軍派遣されると、呉軍撤退した。 蜀の滅亡後に魏に降伏した霍弋南中都督任じられ、呉の交州交阯郡九真郡日南郡制圧した

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