諸葛亮の北伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:12 UTC 版)
そして諸葛亮は魏に対しては、劉備の遺志を継ぎ北伐を敢行した。この北伐の出師にあたり、諸葛亮が劉禅に奏じた『出師の表』は、当時から現代に至るまで名文として非常に高く評価されている。228年、魏の天水・南安・安定の3郡を奪うが、先鋒の馬謖が軍令無視により街亭にて張郃に敗北し(街亭の戦い)、天水・南安・安定の3郡は張郃らに奪い返された。諸葛亮は軍律を模範的に遵守せざるを得ない立場であったため、自身の愛弟子である馬謖を処刑した。これが有名な故事「泣いて馬謖を斬る」である。 同年冬の陳倉城攻撃は食料不足により撤退するも(陳倉の戦い)、229年には魏の武都・陰平の2郡を奪った。同年、呉の孫権が皇帝を称し、蜀漢では原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出した。しかし諸葛亮は魏に対抗するために現時点での同盟破棄は妥当ではないと説得し、蜀漢と呉は改めて対等同盟を結んだ。同時に、魏領の分配についても取り決めた。 その後も祁山周辺において魏との攻防が続き、231年の祁山攻撃では再び食料不足で撤退したものの、追撃してきた張郃を射殺している(祁山の戦い)。233年にはまたも益州南部で南西夷の劉冑が反乱を起こし、馬忠・張嶷らが反乱を平定している。234年には諸葛亮が五丈原において病に倒れ、陣中で死去した(五丈原の戦い)。
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