諸葛亮の死後と政争史
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建興15年(237年)に皇后の張氏(敬哀皇后)が没し、延熙元年(238年)にその妹を新たに皇后とした(単に張皇后と呼ばれる)。 諸葛亮の死後、その遺表を遵守し荊州閥で北伐推進派の蔣琬を録尚書事・大将軍に任じ、延熙元年(238年)には漢中に幕府を開かせ成都の政は益州閥で北伐慎重派の費禕に一任した。蔣琬は諸葛亮と同様に独裁体制を執り、後に漢水を下って上庸へ侵攻する作戦を立てたが、己の持病が続発したために実行に移せないでいた。 延熙4年(241年)、向寵が異民族討伐で戦死すると費禕は南方で内心燻っていた馬忠を抱え込み蔣琬の失脚を画策、同年10月には蔣琬に否定的な衆論を劉禅は費禕と姜維を遣わし伝達させ、漢中で3者は代替と成る涼州侵攻策を作成、延熙6年(243年)に上奏し裁可された。同年10月、姜維が涼州刺史(管轄は武都・陰平)に、蔣琬が涪に駐屯し、左遷された両者に代わり費禕が実権を握るようになった。独裁型の前任者とは逆で協調型の政治スタイルのため、危険に対しノーガードにならざるを得ず、暗殺の危険性を張嶷から常々指摘された。 延熙7年(244年)に曹爽・夏侯玄の率いる魏軍が漢中に侵攻し、魏延が生前に秦嶺山脈中に築いた数多の陣地に拠った王平の督戦で撃退に成功した。病が篤く成った蔣琬は董允と同じ延熙9年(246年)に没し、その後任に就いたのは諸葛亮の遺表通り費禕であった。蔣琬から費禕に至るまで、本人が外地に在っても国家の恩賞・刑罰は全て両者に諮問してから実行された。北伐推進派の姜維が出兵を申出ても、管轄する北伐慎重派の費禕は大敗に備え1万以下の兵しか与えなかった。延熙11年(248年)に王平が没すると費禕が後任で漢中に駐屯することと成った。 『魏略』では蔣琬の死後から劉禅が自ら政治をみるようになったとあるが、大赦を濫発するなど政治は弛緩し宮中は奢侈に流れた。また、董允の死がそれまで抑えられていた宦官の黄皓の台頭を許してしまった。劉禅の黄皓への信用は高く、弟の劉永ですら黄皓のために宮中から遠ざけられる状況であった。 延熙12年(249年)に正始の政変から夏侯覇が蜀漢に亡命してきた。劉禅は夏侯覇と会見し、「あなたの父(夏侯淵)は戦陣の中で命を落としたのだ。私の父が殺したのではないのだ」と言い、自分の子供を指さし示して、「この子は夏侯氏の甥にあたる」と言った。かくして、手厚く爵位恩賞を賜った。夏侯覇は直ぐに征北将軍から車騎将軍に昇進し、数年後から病気がちになり259年に没した。 延熙14年(251年)夏に費禕は成都に帰還するも、「都には宰相の位が見当たらぬ」と望気者の占断で冬には北の漢寿(葭萌関)に駐屯、2年後に其処で正月の宴席で魏の降将郭循によって刺殺された。その「窮している者に近づき利用し己の糧にする」本質から費禕は諸将の恨みを買っており、先の占断は宰相の死を予言する物であった。 費禕の死を承け国政は陳祗と姜維の2頭体制と成った。陳祗が宦官の黄皓を巧く利用して劉禅に影響力を与え続ける事で姜維の北伐を輔弼したのである。陳祗の輔弼の下で姜維は度々大規模な北伐を遂行したが段谷の戦いで鄧艾に大敗し国内で己の政治的地盤を失った。 景耀元年(258年)に陳祗が没すると、後任と謂うべき才を持つ者は存在せず、北伐反対派である益州閥の諸葛瞻・董厥らが宦官の黄皓を姜維への掣肘に利用して政を執る様に成った。その一方で閻宇は黄皓と結託し、黄皓は姜維と閻宇を交代させようと画策した。諸葛瞻・董厥は、姜維が戦争を好んで功績なく、国内の疲弊を理由に姜維を前線から召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきと考えていたという。 景耀3年(260年)には、関羽や張飛といった建国の功臣や夏侯覇に諡号を濫発した。翌年には諸葛瞻が行都護衛将軍となり董厥と共に平尚書事として朝政を執ることとなった。姜維の腹心である廖化ですら諸葛瞻への参賀を考慮した。 景耀5年(262年)には姜維が黄皓の殺害を密奏するも、董允の存命時から黄皓の傀儡となって久しい劉禅は、当の本人に謝罪させる有様であった。これを承け姜維は直ぐに自軍を率いて雍州は沓中に避難を兼ねて屯田するようになり、内外の連携は粗不可能となった。
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