諸葛亮の死後とは? わかりやすく解説

諸葛亮の死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 14:48 UTC 版)

魏延」の記事における「諸葛亮の死後」の解説

234年諸葛亮は再び北伐出陣し魏延先鋒とした。魏延諸葛亮軍営から10里(約5km)のところにいたが、ある日自らの頭に角が生えるという夢に悩み趙直という人物相談した趙直は「麒麟は角を持っている用いることはありません。これは、戦わずして賊軍自壊する象徴でありますと言ったが、魏延退座すると近くの者に「角という字は刀の下に用いと書く。頭の上に刀が用いられるのだから、その不吉さは大変なものだ(つまり魏延の首が落とされるという暗示)」と、本当占い結果漏らした諸葛亮布陣し五丈原で病に倒れると、内密に楊儀費禕姜維らを呼び寄せ自分死んだ全軍撤退するように命じた。そして、撤退するにあたっては、魏延に敵の追撃を断たせ、もし彼が命令に従わなければ構わず軍を進発させよと彼らに指示している。 諸葛亮病死すると、楊儀費禕頼んで魏延意向を探らせた。魏延自分指揮官となって北伐継続するよう主張し楊儀指揮下に入ることを拒否した魏延が人を遣わして様子を探らせると、諸軍諸葛亮定めた指図に従って次々撤退開始した魏延怒り楊儀戻れないよう先発し桟道焼き落とし、さらに楊儀反逆した劉禅上奏した。楊儀も山に桟道掛け昼夜兼行魏延の後を追いかけ同じく劉禅魏延反逆した上奏した。 相反する上奏受けた劉禅は、どちらが正しいのか董允蔣琬に問うた。2人はいずれ楊儀の肩を持ち魏延疑った先行していた魏延南谷口で楊儀迎撃すると、楊儀王平(「魏延伝」の記述では「何平」)を魏延に当たらせた。王平魏延兵士向かって「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならぬうちに、お前たちは何故このような事をしようとするのか」と一喝すると、魏延兵士たち魏延が悪い事を知っていたので、彼を見捨てて悉く逃げ去った取り残され魏延は、息子たち数人漢中出奔した。しかし楊儀馬岱追撃させ、魏延父子を斬らせた。魏延の首が楊儀元に届くと、楊儀は「庸奴(知恵足りぬ輩)め、もう一度悪さができるものならやってみよ」と言って首を踏みつけたという。こうして魏延三族処刑された。 なお裴松之が注に引用する魏略』には異説載せられている。『魏略によれば、「諸葛亮病気になると、魏延らに向かって、自らの死後自国守り固めるようにし、再度出征固く禁じた。そして魏延には自分役目代行させ、密かに遺体持ち去るよう命じた魏延は褒口に至ってはじめて諸葛亮の喪を発した楊儀魏延不和だったため、魏延が軍の指揮代行するのを見て自身殺されるではないか恐れていた。そこで魏延が軍もろとも北(魏)に寝返ろうとしていると噂を流し、軍を率いて魏延攻撃した魏延にはもともとそのようなつもりはなく、戦わずして軍が逃走したため、追撃受けて殺された」とある。ただし裴松之はこの記述を「敵国伝聞であり、本伝記述とどちらが正しいか論ずるまでもない」と論評している。

※この「諸葛亮の死後」の解説は、「魏延」の解説の一部です。
「諸葛亮の死後」を含む「魏延」の記事については、「魏延」の概要を参照ください。

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