諸葛亮の北伐時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 14:48 UTC 版)
223年、劉備が崩御し、諸葛亮が丞相として蜀の全権を握った後も、引き続き重用された。 227年、諸葛亮が第1次北伐のため漢中に入ると、魏延は前部督(前線部隊の指揮官)となり、さらに丞相司馬(軍事に関する幕僚職)・涼州刺史に任命された。北伐に際して、諸将は魏延や呉懿を先鋒にするべきであると言ったが、諸葛亮はこれを聞き入れず馬謖を抜擢し、蜀軍は敗北した。 230年、魏の曹真らが漢中に攻め寄せるも大雨によって軍を引く(子午の役)と、これに乗じた諸葛亮は西に軍を進めた。魏延は呉懿とともに羌中へ入り、陽谿で魏の費耀・郭淮を大いに打ち破った。この功績で前軍師・征西大将軍に昇進し、仮節の待遇を与えられ、南鄭侯に爵位を上げられた。 231年、蜀漢軍が魏の祁山を包囲したので、祁山の包囲を解くために司馬懿が諸葛亮を、張郃が王平を攻めたが、魏延・呉班・高翔は司馬懿を大いに撃退した。 魏延は出征の度に諸葛亮に対して、かつての韓信のように、自ら兵1万を率いて本隊と別の道を通り、潼関で落ち合う作戦を許可してほしいと要請していた。しかし、諸葛亮は許さなかったので、魏延は諸葛亮が臆病さゆえに自分の才能が発揮できないと嘆いていた。 また、魏延は勇猛で誇り高い性格ゆえ、諸将は彼を敬遠していたが、楊儀だけは公然と手向かった。そのため楊儀との仲は特に悪かった。軍議で言い争いになると、魏延は楊儀に剣を突きつけ脅し、楊儀を泣かせるというありさまで、その度に費禕が両者の仲裁に入っていた。諸葛亮は魏延の驍勇・楊儀の才幹、いずれも高く評価していたため、どちらも罷免するに忍びず、二人の不仲に心を痛めていた。
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