廃位後
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「カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)」の記事における「廃位後」の解説
一般市民となって後のカール・エドゥアルトは、ドイツ革命によるドイツの君主制廃止、ロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラ(カール・エドゥアルトの従姉であった)夫妻一家がボリシェヴィキにより銃殺されたことなどが影響し、左翼やボリシェヴィキに恐怖と憎悪をいだき、さまざまな右翼系の武装組織や政治運動に関わった後、ナチ党に入党して突撃隊(SA)の一員となった。また、1933年から1945年までドイツ赤十字社総裁、1937年から1945年までは国会議員を務めている。 1936年、従兄ジョージ5世の葬儀に、カール・エドゥアルトはSAの制服で参列した。これは、イギリス王族としてイギリスの軍服を着用することが許されていなかったためでもある。この時、カール・エドゥアルトには新王エドワード8世と会談して独英関係の改善と条約締結の可能性を探る任務が与えられていたが、結局そうした会談は行なわれなかった。 1940年4月に皇紀二千六百年のドイツ側慶奉使節として来日している。当初は2月に訪日する予定であったが、対英米関係の悪化を恐れる時の米内内閣の要請により、訪日日程が遅れた経緯がある。 第二次世界大戦終結後、アメリカ軍はカール・エドゥアルトをナチ党の同調者として逮捕した。関節リウマチに苦しむ弟カール・エドゥアルトの逮捕投獄を知り、姉アリスは夫アスローン伯と2人でドイツへ赴き、アメリカ軍に弟の釈放を懇願したが、認められなかった。1946年、カール・エドゥアルトは非ナチ化裁判で重い罰金刑を受けた。テューリンゲンやコーブルクに所有していた財産の多くはソ連軍に没収され、イギリス王族の一員としてイギリス国民に人気のあった姉アリスとは対照的に、晩年は貧窮の中で隠遁生活を送った。 イギリスのチャンネル4が2007年12月6日に放送したテレビ番組“Hitler's Favourite Royal ”において、カール・エドゥアルトは実はドイツ赤十字社総裁として、ナチス政権が10万人におよぶ身体精神障害者、障害児を「恩寵の死」(Gnadentod)の名の下に殺害したことや、「水晶の夜」事件、またユダヤ人大虐殺、ユダヤ人問題の最終的解決などのことをすべて知っていたはずである、といった内容の報道がなされた。
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廃位後
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王位を追われたデマラトスは、ある官職についてギュムノパイディアイの祭に赴いた。その時、自身の出自に疑問を抱いた彼は母を呼んで自分の本当の父は誰かと問い、母はアリストンに化けた英雄アストラバコスがそれであると答えたという。その後、デマラトスはスパルタから亡命し、ペルシア王ダレイオス1世の許に身を寄せた。ダレイオスは彼にペルガモンとその他にいくつかの都市を与え、クセノポンの記述によれば彼の子孫は4世紀の初めまでそこを支配した。 亡命先でデマラトスはペルシア王の良き相談相手になった。ダレイオスが先妻の子アルトバザネスと、王位に就いた後に生まれた後妻の子クセルクセスとのいずれに王位を譲ろうかと考えていた時、デマラトスはスパルタの慣例を持ち出して王位に就いた後の子を王位につけるべきであると主張するようクセルクセスに入れ知恵し、クセルクセスのこの言い分を聞いたダレイオスはクセルクセスを次の王に指名した。 紀元前480年のペルシアによるギリシア侵攻時(第二次ペルシア戦争)、デマラトスはクセルクセス1世に同行した。ギリシア進撃に先立ち、クセルクセスがデマラトスにスパルタ軍の強さは如何ほどかと問うた時、デマラトスはスパルタ人はどんな相手でも戦い抜くと言ってスパルタ人を見くびらぬよう警告した。その時クセルクセスはこれを聞き流したが、テルモピュライの戦いで散々手こずらされてようやくスパルタ軍に勝利した後になってそれを認めた。その時デマラトスはクセルクセスにスパルタ人を倒す策を求められ、スパルタの目と鼻の先にあるキュテラ島へ艦隊を分遣して占領し、スパルタ市を脅かすよう献策した。しかし、その策はクセルクセスの弟で艦隊指揮官だったアカイメネスの反対に遭い、採用されなかった。周知のようにこの遠征は失敗に終わり、ペルシア軍はギリシアから撃退された。 また、デマラトスは(亡命以前の)オリュンピア祭で四頭立ての戦車競争で優勝した人物でもある。
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