廃位、ボヘミアへの逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 02:43 UTC 版)
「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の記事における「廃位、ボヘミアへの逃亡」の解説
1146年の年明け、ヴワディスワフ2世はついに異母弟達との最後の戦いをはじめた。当初、大公が何の障害もなくマゾフシェを占領し、ボレスワフ4世をポズナンの要塞に撤退させたため、大公が勝利するかと思われた。しかし、ヴワディスワフ2世は結果的には敗北することになった。この原因は、自領の情勢が不安定で、ヴワディスワフ2世の独裁に反対する大規模な反乱を引き起こしてしまったことだったようである。反乱軍は、ヴウォストヴィチ事件に関して大公を破門していたグニェズノ大司教ヤクプ・ゼ・ジュニナの支持を受けたことで、さらに勢いを増し、さらなる反乱の続発を引き起こした。 ポズナンのボレスワフ4世に合流した他の年少諸公の連合軍ばかりか、自分自身の臣下達にも敗れてしまったことは、ヴワディスワフ2世にとってまさに青天の霹靂だった。大公は亡命を余儀なくされ、クラクフ防衛戦に失敗した公妃アグネスと子供達もヴワディスワフ2世に合流した。年少の諸公達が完全な勝利を勝ち取り、ヴワディスワフ2世は隣国の君主達の情けにすがって生きていくしかなくなった。まもなく、ヴワディスワフは妻の妹と結婚していたボヘミア王ヴラディスラフ2世のプラハの宮廷に身を落ちつけた。彼は2度とポーランドの土を踏むことは出来なかった。
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