廃位と死
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司馬冏らの挙兵以後、百官や諸将は司馬倫と孫秀を殺害して天下に謝罪しようと思い、その機会を窺うようになった。4月7日、左衛将軍王輿と尚書・広陵公司馬漼は司馬倫の排斥を目論み、700人余りの兵を率いて南掖門から宮中へ向かい、勅命を下して諸将へ宮門を押さえるよう命じ、これに三部司馬が内から応じた。こうして孫秀・許超・士猗ら司馬倫の側近達は多くがその場で斬り捨てられ、孫秀の子の孫会も捕らえられて処刑された。孫秀の家にいた司馬馥も王輿の将兵により捕らえられ、散騎省に監禁された。そして王輿は雲龍門に兵を集めて八座(六曹尚書と尚書令・尚書僕射)を殿中に入れると、司馬倫は詔を書くよう強要され「朕は孫秀によって誤りを犯し、三王を怒らせた。今、孫秀は既に誅殺されたので、太上皇を復位させ、朕は農地に帰って晩年を過ごすことにする」と宣言させた。 詔は各地に発せられ、騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)によって各軍に停戦が命じられた。司馬倫に従っていた文武百官はみな逃走し、司馬倫の邸宅はもぬけの空となった。司馬倫は黄門に伴われて華林東門から送り出され、太子司馬荂らと共に汶陽里にある自宅に帰された。甲士数千人が金墉城から恵帝を招き入れると、民衆は万歳を唱えた。恵帝が端門から皇宮に入り殿上に登り、群臣は頓首してこれまでの無礼を謝罪した。その後、司馬倫・司馬荂らは金墉城に送られ、河北からの帰途であった司馬虔も九曲にて政変を知ると、軍を棄てて私邸に帰った。9日、大赦が下され、元号は永寧と改められ、全国では5日間の宴が開かれた。司馬肜らは上書して「趙王父子の凶逆は誅に伏すべきです」と進言した。百官は朝堂で議論を行い、みな司馬肜の表奏に同調した。 13日、尚書袁敞が符節を持って司馬倫に死を賜り、金屑酒を飲まされて自害させられた。司馬倫は慚愧して巾で顔を覆うと「孫秀が我を誤らせた!孫秀が我を誤らせた!」と慟哭した。子の司馬荂・司馬馥・司馬虔・司馬詡も廷尉に引き渡され、処刑された。司馬倫によって用いられた百官は罷免され、尚書・御史・謁者・門下・中書・秘書・諸公府等の官員がほとんど空位となり、尚書台や府衛だけがごく少数留め置かれた。司馬冏らが挙兵してから司馬倫の敗亡まで60日余り、実に10万人以上が殺害されたという。 司馬倫の死を聞くと、司馬冏らの討伐に当たっていた張泓らはみな投降した。張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟から軍を撤退させ、伏胤は敗戦して洛陽に逃げ戻ったが、みな市において処刑された。蔡璜は陽翟から司馬冏軍に投降し、洛陽に戻った後に自殺した。王輿もまたもともとは司馬倫の一派であったが、今回の功績により罪を免れた。しかし、東萊王司馬蕤が司馬冏を謀殺しようとすると、司馬蕤の謀議に加わったため殺害された。こうして司馬倫の与党は尽く罪に服したが、司馬楙・劉琨・陸機・顧栄のように助命されたものもいた。
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廃位と死
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ダスタギルドが占領された後、ホスロー2世が投獄していた息子カワード2世はサーサーン朝の封建貴族たちの手によって解放された。その中にはアスパーフバド家(英語版)家のスパーフベド(軍司令官)であるファッルフ・ホルミズド(英語版)と、彼の二人の息子、ロスタム・ファッロフザード(英語版)とファッルフザード(英語版)、ミフラーン家の一族のシャフルバラーズ、Varaztirotsのアルメニア人の一派、そして最後にKanārangīyān一族のKanadbakがいた。2月25日、カワード2世はアスパド・グシュナースプ(英語版)と共にクテシフォンを占領しホスロー2世を投獄した。カワード2世はその後、自身がサーサーン朝の王であることを宣言し、ペーローズ・ホスロー(英語版)に自身の兄弟と異母兄弟全員の処刑を命じた。その中にはホスロー2世が最も愛した息子マルダーンシャーが含まれていた。 3日後、カワード2世はミフル・ホルミズド(英語版)に父、ホスロー2世の処刑を命じた(いくつかの史料は彼はゆっくりと矢で射殺されたとしている。)。ペルシアの貴族たちの支持を受けてカワード2世はその後ビザンツ皇帝ヘラクレイオスとの間に講和を結び、ビザンツ帝国に占領した全ての領土と捕虜を返還し、賠償金を支払い、また614年にエルサレムで鹵獲した聖十字架(真の十字架)とその他の遺物も共に返還した。ヘラクレイオスはコンスタンティノープルに凱旋し、サーサーン朝は僅か10年前の栄光の座から無政府状態へと転落した。
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廃位と死
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「アフマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事における「廃位と死」の解説
その後、サフダル・ジャングの後継者である宰相と軍務大臣ガーズィー・ウッディーン・ハーンとの間に権力争いが起こった。また、宮廷ではアフガン勢力の侵攻に対抗するためにマラーターと組もうとする声も上がっていた。ガーズィー・ウッディーン・ハーンはマラーターのシンディア家、ホールカル家と接近して手を結び、これに勝利した。 同年6月2日、ガーズィー・ウッディーンはアフマド・シャーに宰相位を要求したが断られたため、アフマド・シャーとその母ウドハム・バーイーの目を盲目した。その後、ジャハーンダール・シャーの息子アーラムギール2世を皇帝とし、盲目にされたアフマド・シャーとウドハム・バーイーはデリーのサリームガル城に幽閉された。 アフマド・シャーの廃位後、ガーズィー・ウッディーンは専横を極めるようになり、1759年11月にアーラムギール2世も殺害してしまう。そうしたなかも、アフマド・シャーは残りの余生をずっと幽閉された状態で暮らし、1771年1月1日にデリーで死亡した。 のち、1788年にアフガン系ローヒラー族がデリーを占領した際、アフマド・シャーの息子ビーダール・バフトは一時的に傀儡の皇帝となった。
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廃位と死
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1718年9月、ファッルフシヤルはついにサイイド兄弟らに我慢ができなくなり、軍務大臣フサイン・アリー・ハーンに宮廷に出仕するよう命じた。この時、フサイン・アリー・ハーンはデカン総督としてにデカン地方に長期の軍事遠征で滞在していたが、11月にひとまず帝都に戻ることにした。 フサイン・アリー・ハーンはこの命令に危機を感じており、帰還したのちデリー近郊に陣を設け、彼は陣中で何度も「もはや自分は皇帝の家臣はない」、と何度も言ったとされる。また、彼はこのとき反逆を明らかにするため、自身の太鼓を騒々しくたたかせた。家臣の太鼓を皇帝の居城の近くでたたかせるのは、著しく規律に違反する行為であった。 こうして、同年2月28日にフサイン・アリー・ハーンは兄アブドゥッラー・ハーンと合流したのち、デリー城を制圧し、皇帝ファッルフシヤルと面会した。アブドゥッラー・ハーンは面会時、、皇帝ファッルフシヤルにこう言い放った。 「 「我々が陛下の為にあれだけ忠誠をつくしたというのに、恩知らずにも、その労に何一つ報いようとせず、悪意と疑いと裏切りで返してくるとは」 」 そして、彼らは帝国のあらゆる官職を要求し、ファッルフシヤルは恐ろしくなり、ハーレムへと逃げ込んだ。サイイド兄弟は追いかけ、屋上の隅に隠れていた皇帝を引きずり出し、廃位したのち盲目にしてデリー城で幽閉した。 サイイド兄弟はファッルフシヤルを廃位した日、新たな皇帝にファッルフシヤルの従兄弟であり、バハードゥル・シャー1世の三男ラフィー・ウッシャーンの息子ラフィー・ウッダラジャートを即位させた。 ファッルフシヤルは廃位されたのち、脱出計画が発覚したため、4月29日にサイイド兄弟の命によりデリー城で殺された 。
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廃位と死
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「イスマーイール2世 (ナスル朝)」の記事における「廃位と死」の解説
ナスル朝において内戦が回避されたことで、イスマーイール2世は前任者が結んだアラゴンに対するカスティーリャとの同盟関係を更新した。これに対しアラゴンのペーラ4世は、アラゴンで軍務に就いていたナスル朝出身の騎士たちを送り返すことでイスマーイール2世の統治を不安定なものにしようとした。イブン・アル=ハティーブは、自身の著作でこの時期のナスル朝に関する主要な史料の一つとなっている『アッ=ラムハ・アル=バドリーヤ』において、イスマーイール2世(イブン・アル=ハティーブは「強奪者」を意味するアル=ムタワッティブのあだ名で呼んでいる)を軟弱で怠惰で腰下まで伸ばした髪を絹で編んでいた女々しい統治者であり、人格的に何も優れたところがなかったと記している。歴史家のレオナード・パトリック・ハーヴェイ(英語版)は、このような否定的な描写はイブン・アル=ハティーブがムハンマド5世に忠誠を誓っていたことからくる偏見の可能性があると指摘している。いずれにせよ、エル・ベルメホはイスマーイール2世が反抗し始める程にますます権力を固めていった。 結局、エル・ベルメホはイスマーイール2世が行動を起こす前に先手を打って1360年6月24日(ヒジュラ暦761年シャアバーン月8日)もしくは7月13日(シャアバーン月27日)の夜に二度目となるクーデターを起こし、イスマーイール2世を廃位するとともに自らスルターンとなった。イスマーイール2世はエル・ベルメホの配下の者たちに包囲され、グラナダの町を見下ろす塔(恐らくアルハンブラ宮殿のアルカサバ(城塞)の塔の一つ)に立て籠った。降伏を迫られたイスマーイール2世は隠遁生活に入ることを申し出たが、エル・ベルメホはイスマーイール2世を地下牢へ連行し、そこで処刑した。続いてまだ子供であったイスマーイール2世の弟のカイスを見つけ出すとカイスも処刑した。二人の遺体はぼろ布に覆われただけで公衆の面前に投げ捨てられた。イスマーイール2世の大臣たちも同様に処刑された。歴史家のフランシスコ・ビダル・カストロによれば、これらのエル・ベルメホの行動は、ムハンマド5世を廃位するためにイスマーイールが利用されたように、将来自分に対する宮廷の陰謀に両者が利用されるかもしれないという恐れが動機となっていた。翌日にイスマーイール2世とカイスの遺体は回収され、アルハンブラ宮殿の王室墓地(ラウダ)に父親のユースフ1世と並んで埋葬された。
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廃位と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:53 UTC 版)
バフラーム・チョービンの反乱について知らされた後、ホルミズド4世はヴィスタムやVinduyih、そして他の貴族らをともに脇に追いやって対抗処置を組織しようとしたが、セベオス(英語版)によれば彼の息子ホスロー2世によって挫折した。ホルミズド4世はVinduyihや他の多くの貴族を投獄することで対抗したが、明らかにヴィスタムは逃亡に成功した。ヴィスタムとVinduyihら兄弟はすぐ後に発生した宮廷クーデターの首謀者であるよう思われる。このクーデターでホルミズド4世は退位させられ、目を潰されて殺害された。そして彼の息子ホスロー2世が即位した。
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