廃位、その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:03 UTC 版)
「イヴァン・ステファン」の記事における「廃位、その後」の解説
イヴァン・ステファンは叔父のベラウルら少数のブルガリア貴族に支持されたが、大多数の貴族は彼をセルビアの手先と見なして敵対的な姿勢をとった。ビザンツへの反抗に手間取る新皇帝への失望は、1331年3月にラクシン、フィリップら大貴族のクーデターを引き起こした。そして、ロヴェチのデスポット(僭主)・イヴァン・アレクサンダルが新たな皇帝に選出される。 廃位されたイヴァン・ステファンは母と兄弟を連れてベラウルの領地であるニシュに逃れ、同地に1年半留まった。翌1332年にイヴァン・ステファンとアンナはドゥブロヴニクに移り、彼の兄弟のシシュマンはジョチ・ウルスとビザンツに支援を求めるが、成果は得られなかった。ドゥブロブニクに逃れて以降のイヴァン・ステファンの動向について、正確な情報を得ることはできない。 Europäische Stammtafelnの著者Detlev Schwennickeによれば、イヴァン・ステファンは母を伴って南イタリアに行き、ターラント公フィリッポ1世の非嫡出子と結婚したが、子をもうけることはできなかったという。1342年、ビザンツから追われたヨハネス6世カンタクゼノスと行動を共にする。それから20年後、イヴァン・ステファンはシエーナの牢獄に収監され、1373年にナポリで没したと思われる。また、Schwennickeは、彼がナポリではなくSlobitsaで亡くなった可能性も指摘している。
※この「廃位、その後」の解説は、「イヴァン・ステファン」の解説の一部です。
「廃位、その後」を含む「イヴァン・ステファン」の記事については、「イヴァン・ステファン」の概要を参照ください。
- 廃位、その後のページへのリンク