廃仏毀釈による廃寺と再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 11:32 UTC 版)
「妙円寺 (日置市)」の記事における「廃仏毀釈による廃寺と再興」の解説
明治2年(1869年)、神仏分離などに端を発した廃仏毀釈により妙円寺も破壊され、当時の住職は島津義弘の位牌などの宝物を持って避難した。明治13年(1880年)には早くも地元の支援者により、かつての寺地の近隣に再興されたが、徳重神社の所有となった宝物は、返還を求めるも達せられぬまま至る。明治2年11月までに薩摩藩内1066カ所の寺が廃絶し、2964人いた僧侶も明治7年(1874年)までには還俗させられ、廃仏毀釈の期間が過ぎた後も数年間は、寺院は全て無く、僧侶も全ていない状態になったと『鹿児島県史』にも記されている状況であり、島津氏における6代から28代までの当主の墓が並び、最盛期には約1500人の僧侶がおり南九州屈指の寺だった福昌寺ですら、有志が2度も再建を試みたものの許可されず、約30年後の明治31年(1898年)にようやく、直線距離で30km以上離れた現在の薩摩川内市内に再建でき、日新寺や薩摩藩屈指の有力寺院だった一乗院など、島津氏に深く関わりがあった数々の寺も、廃仏毀釈によりその多くは再興に到らず、廃寺のままとなっているが、妙円寺はそうした中、再興にまで至った数少ない例であり、恵まれた幸運な寺でもある。復興後の妙円寺は600坪ほどに縮小されたが、島津義弘の位牌に加え、境内には昭和11年(1936年)に公爵である島津家第30代当主・島津忠重の寄贈した石屋眞梁の石碑があり、碑銘は陸軍大将町田経宇によって書かれている。 鹿児島本線伊集院駅の案内や地図には、この禅寺の所在は記されていないが、伊集院駅近くにある鹿児島県道24号鹿児島東市来線からの道への入口や、徳重神社の敷地内駐車場入口、城山トンネル交差点、鹿児島県立伊集院高等学校近くにある鹿児島県道37号伊集院日吉線からの道への入口など様々な場所に、妙円寺と徳重神社それぞれの方向を指す矢印が書かれたうえ、日置市のご当地キャラクター「ひお吉」の顔と腕が描かれた看板が、日置市により年中設置されている。また、徳重神社の境内に日置市教育委員会が設置した解説板「妙円寺詣りの意義」や妙円寺詣りのパンフレットにも、妙円寺が再興されていることが記載されている。ちなみに、妙円寺61代住職・伊藤憲一(いとうけんいつ)は韓国の禅寺とも交流があり、平成22年(2010年)10月末には韓国の東國寺で行われた韓国人強制徴用者物故者供養祭という供養祭にも参加している。
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