復興後
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朝鮮特需の恩恵などにより日本経済が復興し、1956年には経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されるまでに至った。漫画では安価な赤本に代わって豪華な貸本漫画が人気となり、少女向けの貸本漫画も登場した。貸本漫画雑誌も生まれ、少女向けでは若木書房が『泉』『こけし』『ゆめ』『こだま』『草ぶえ』『風車』を、東京漫画出版社が『さくらんぼ』『ジュニアフレンド』『星座』『忘れな草』などを、金園社が『すみれ』『こまどり』『りぼん』を発行した。 貸本漫画のブームは後も活躍する多くの少女漫画家を輩出することとなった(若木書房#おもな出身作家、矢代まさこなど)。女流作家の登場によって母恋物(母娘メロドラマ)が登場し、東光堂の貸本漫画レーベル「漫画光文庫」では1957年より『母恋シリーズ』(牧美也子)が出版されたほか、『少女ブック』では1959年より母娘離別物の『白馬の少女』(わたなべまさこ)が連載された。 また、1952年にディズニー映画「シンデレラ姫」が日本でも公開され人気となっており、1954年に王女と新聞記者の身分違いの恋愛を描いたイタリア映画「ローマの休日」が公開され大ヒットしていた。1957年には女性週刊誌「週刊女性」(1957年)が、1958年には女性週刊誌「女性自身」が創刊されて人気となり、そこで継続的に取り上げられたこともあって、1958年には身分違いの自由恋愛で皇后となった美智子妃のブームが起き(ミッチー・ブーム)、プリンセス・ラインのドレスがブームとなった。 1953年には世界的なミス・コンテストの一つミス・ユニバースに昭和のシンデレラ姫と呼ばれた伊東絹子が入賞し、その体型であった「八頭身」が流行語となっており、それによって日本人ファッションモデルも八頭身が一般的となっていき、少女漫画でもその影響を受けていった。初期の例としては1957年の『フイチンさん』(上田トシコ)の主人公が八頭身スタイルとなっている。 1950年代後半から1960年代前半にかけては、宝塚歌劇団の影響を受けたり、高橋真琴らの少女画からの影響を受け、少女漫画特有の装飾的な表現が発達した。この表現は人物の背景に花を描き込んだり、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目などである。先行した少女小説の影響などもあって、美形の男性・男装の麗人などが登場し、華麗なストーリーを展開した。1950年代から1960年代前半の少女漫画はちばてつやや松本零士など男性作家によって描かれていることが多く、この時期の古典的な少女漫画の様式や技法の追究は、主に前述の高橋真琴を始めとする男性作家や男性編集者によって築かれたものである。 一方、少年小説誌において1949年に「少年探偵団」の連載が再開されると「少年探偵ブーム」が起こり、少女誌でも少女探偵小説が人気となっていった。少女漫画では探偵物として「少女クラブ」の『探偵タン子ちゃん』(小野寺秋風)、「少女ブック」の『探偵テイ子ちゃん』(小野寺秋風)、「なかよし」の『ボクちゃん探偵長』(小野寺秋風)及び『こけし探偵局』(手塚治虫、1957年)が登場した。 また、1958年には読者の体験談を基にした最初の漫画である『クラスおてんば日記』(今村洋子)が登場し、この等身大の漫画は後の作品に大きな影響を与えたとされる。その後、そのスピンオフの『チャコちゃんの日記』(今村洋子、1959年-)、『おてんば天使』(横山光輝、1959年-)、『少女たち』(原作:西谷康二、漫画:牧美也子)などの作品が人気となっていった。 その後、週刊誌が人気となることで少女漫画誌の週間誌化が進んでいった。1950年代後半に少年漫画誌で「週刊少年マガジン」や「週刊少年サンデー」が登場し、少女漫画誌でも1962年に月刊誌「少女クラブ」の後継誌『週刊少女フレンド』が、1963年に月刊誌「少女ブック」の後継誌『週刊マーガレット』が登場した。一方、月刊誌『少女』は後継誌の無いまま休刊となった。この週刊誌化によって少女漫画では新たな方向の模索が行われた。 なお1960年代なかばごろの少女漫画では、他人の原作・原案が多かったという指摘が存在する。
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