ポルトガル・日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 16:20 UTC 版)
「大航海時代」および「重商主義」も参照 1511年、アユタヤに同年にマラッカを占領したばかりのポルトガルから外交使節が到来した。これはタイの歴史上における最初の欧米勢力との接触と考えられている。5年後にはポルトガルの使節が再びアユタヤに渡り、ポルトガル勢力のアユタヤ領内での通商許可を得た。15世紀から日本人のアユタヤ入植は見られたが、沖縄の琉球王国では、交易の拠点としていたマラッカが1511年に失われた後、使節を派遣して東南アジア産品をアユタヤで調達していたが、それも1570年を最後とする。ビルマの占領でアユタヤ王朝が一時滅亡した影響と考えられる。アユタヤ復興後に接触が無かったのは、1567年に明朝が中国商人の直接交易を緩和し、中継交易そのものに打撃を受けたことによる。琉球の交易は中国の朝貢国間ネットワークに組み込まれた国営事業であった。
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