ポルトガル内戦とは? わかりやすく解説

ポルトガル内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 08:05 UTC 版)

ポルトガル内戦の風刺画(オノレ・ドーミエ1833年

ポルトガル内戦: Guerra Civil Portuguesa)は、1828年から1834年にかけてポルトガル王国において王位継承をめぐる争いから起きた内戦。ウィーン体制下における立憲君主主義絶対君主主義の対立が主な原因。スペインをはじめイギリスフランスカトリック教会などの介入を招いた。自由戦争(Guerras Liberais)、兄弟戦争ミゲリスタ戦争の別名がある。

原因

発端は1826年の国王ジョアン6世の死であった。正当な継承権を持つのはジョアン6世の最年長の王子ドン・ペドロであったが、1822年にブラジル帝国がポルトガルから独立した際、ブラジル摂政であったペドロは皇帝ペドロ1世として擁立されていた。

ペドロのポルトガル王位継承はポルトガル、ブラジル両国の国民からの大きな反対と議論を招いた。ペドロは一旦王位を継承したが(ポルトガル王としてはペドロ4世)、間もなく7歳の娘マリア・ダ・グロリアへ譲位し、自分の弟ミゲルと婚約させた上でマリアが未成年の間の摂政とすることにした。

またペドロは、1822年にジョアン6世が定めたポルトガル最初の憲法を、1826年4月に改正した。

新憲法

新しい立憲議会において、ペドロは自由主義的な考えを持っていたが、絶対王政派と立憲王政派(自由主義者)との仲裁に努め、双方に政治上の役目を与えた。

1822年憲法と異なるのは、新たに政府の権限を4つに分立させたところである。立法府は2つに分けられ、上院は貴族院として、国王に選ばれる貴族または聖職者が議席を持ち、任期は終身かつ世襲であった。下院は衆議院として、地方議会による間接選挙で選ばれる111人の議員が議席を持ち、任期は4年間である。

また、地方議会への選挙権は国税を納めた富裕な男子のみに制限された。司法権裁判所が司り、行政権内閣が司る。国王の政治上の権限は縮小されるものの、立法に対する絶対的拒否権を保持した。

不満

地主層や教会を中心とした絶対王政派の多くは、この新憲法に不満であった。ペドロ4世はブラジルの君主であって、ポルトガル内の政治には口出しすべきでない、と彼らは考えた。そして、絶対主義の信奉者であったミゲル王子を王位に即けようと企んだ。ナポレオンによってもたらされた諸改革を根絶しようとする、スペインのフェルナンド7世の支持を得て、絶対王政派は国内の自由主義者を攻撃した。

1828年2月、外遊中だったミゲルが帰国した。女王マリア2世への忠誠を誓い、摂政職を拝命するためとされたが、それは見せかけであった。ミゲルはすぐに自身の支持者らによって国王に推戴され、絶対王政への回帰を宣言する。上下両院は解散させられ、5月には伝統的身分制議会コルテスが招集された。コルテスにおける議決によって、ミゲルは目論見どおり国王ミゲル1世となり、立憲政府を無効化させた。

反乱

このような王位の僭称に自由主義者らは黙っておらず、5月18日に自由主義勢力の砦ポルトにおいて、ペドロ4世とマリア・ダ・グロリア、さらに立憲政府への忠誠を宣言する。絶対王政への反乱は他都市へも波及し、ミゲルはこれらの反乱を弾圧した。数千人の自由主義者らが逮捕され、またスペインやイギリスへと亡命した。弾圧は5年間続いた。

その頃、ブラジルでは皇帝ペドロ1世と大農園主との関係が悪化し、1831年4月にペドロ1世は息子ペドロ譲位英語版した。そしてポルトガルでの内乱を決着させるべく、イギリスへ渡って遠征軍を組織した。その後すぐに、自由主義者の亡命政権のあるアゾレス諸島で友軍と合流する。1832年7月、イギリスとスペインの支援を受け、ペドロの軍はポルト近郊へと上陸した。ミゲル派(ミゲリスタ)は一度は街を放棄したが、ポンテ・フェレイラの戦い英語版を含む幾度かの衝突の後に、ペドロ軍を包囲する。包囲は約1年に及んだが、ウィリアム・グラスコック率いるイギリス海軍の援軍がドウロ川に入り、ミゲル派は二方面からの攻撃に晒されることとなる。

1833年6月、いまだポルトで包囲されている自由主義派軍は、テルセイラ公の率いる部隊とその援護に当たるチャールズ・ネイピア提督の艦隊を南部のアルガルヴェ地方へ派遣する。

ファロ上陸に成功したテルセイラ公はアレンテージョ地方を北上して、7月24日にリスボンを奪取する。また、ネイピアの艦隊もサン・ヴィセンテ岬の海戦英語版で絶対王政派の艦隊を完膚なきまでに打ち破った。リスボンを手に入れたことで、ポルトでの9か月に及ぶ攻防戦も勝利に終わった。

1833年末、マリア・ダ・グロリアは女王マリア2世として戴冠し、父ペドロが摂政となった。ミゲル派や教会の財産は没収され、これによってローマ教皇庁との関係は冷え込んだ。友好関係の修復は約8年後の1841年まで為されなかった。自由主義派はリスボン、ポルトなどの都市部を押さえることに成功したが、絶対王政派の多くは地方に逃れ、残党狩りは1834年から再開された。

平和

ポルトガル内戦は最終的に、1834年5月14日のアセイセイラの戦いで決着した。ミゲル派の軍は1万8000と大きな脅威であったが、5月24日に和平が結ばれた。ミゲルはポルトガル王位に関する権利を全て放棄し、ポルトガルから永久追放されるが、代わりに年金の受給を認められた。

ペドロは立憲政府を復活させたが、その年の9月24日に没した。以降は女王マリア2世の治世である。


ポルトガル内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 20:29 UTC 版)

ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の記事における「ポルトガル内戦」の解説

詳細は「ポルトガル内戦」を参照 4月7日夜明けペドロ、妃と皇女マリア・ダ・グロリアと妹アナ・デ・ジェズスを含む者たちはイギリス戦艦 HMS ウォースパイト甲板上の人となった艦船リオデジャネイロ沖で投錨し4月13日に前皇帝ヨーロッパ行きHMS ヴォラージに乗り換え出発した6月10日に彼はフランスシェルブール=オクトヴィル到着した。続く数月間に、彼はフランスイギリスの間を往来した。彼は温かく歓迎されたものの、両国から実質的な支援受けられなかった。彼はブラジル皇室においてもポルトガル王室においても公的な地位保持していないという厄介な状況にいることを悟りペドロ6月15日ブラガンサ公称号名乗った。この称号は彼がポルトガル王継承者だったとき一度称したのである。 この称号マリア2世後継者属すべきものであり、彼がそうではないのは明白であったが、彼の主張一般的に認知された。 12月1日アメリー妃が彼女にとって唯一の娘となるマリア・アメリアをパリ出産している。 彼は、ジョゼ・ボニファシオの庇護のもとブラジル残してきた子供たちのことを忘れなかった。彼は、どれほど彼が子どもたち恋しがっているのを伝え繰り返し彼らに真面目に教育を受けるように求めて、どの子どもたちにも痛切な手紙書き送った退位直前に、ペドロ皇位継承者である皇太子に「私は、弟のミゲルと私がブラガンサ家で悪い教育受けた最後の王族となるようにするつもりだ」と語った1830年代ペドロの旗の下で戦った海軍司令官チャールズ・ネイピアは、「彼の美点は彼自身のものであり、彼の欠点教育不足のせいであり、彼自身よりも深くその欠陥気づいている者はいなかった」と所見述べている。 彼のペドロ2世の手はしばしば、少年皇帝が読む水準超えた言葉書かれており、歴史家そのような文は主に、若き君主成長してから指針となりうるアドバイスとして書かれた、と考えている。ペドロ2世の手紙におけるこの注目に値する文は、ブラガンサ公政治哲学に力強い洞察与えるものであった。 「王侯が、ただ王侯であるためゆえに、ただ尊敬される時代終わった人民がその権利についてよく知っている、我々が生きる世紀では、王侯単なる人になるべきであり、自分たちが人であり神でないことを知るべきであり、王侯いち早く尊敬されるよりも愛されるために、その知識優れた感性必要不可欠であることを知るべきである。」 彼は「自由な人民統治者への尊敬は、統治者人民を、人民志す至福水準達成できる人民が抱く確信より生まれなければならないそうでなければ統治者にも人民にも不幸である」と結んでいる。 パリでは、ペドロはラファエット侯ジルベール・デュ・モティエと知己をえた。アメリカ独立戦争参加した侯は彼の最も忠実な支援者となった1832年1月25日ペドロラファイエット家族本人200人もの有志とに別れ告げた。彼はマリア2世前に跪きこういった「女王陛下、ここには陛下権利支持し王冠取りさんとするポルトガル将軍一人います」。マリアは涙を流し父を抱擁したペドロ大西洋アゾレス諸島帆走した。同諸島マリア2世忠実な唯一のポルトガル領であった。数か月最終準備の後、ペドロポルトガル本土へ出港し7月9日には反対もないままポルト市に入った。彼は、外国傭兵ラファイエットの孫のアドリアン・ジュール・ド・ラステリー(Adrien Jules de Lasteyrie)のような義勇兵同様に、アルメイダ・ガレットとアレシャンドレ・エルクラノのようなポルトガル自由主義者構成される小規模な陸軍指揮官になった

※この「ポルトガル内戦」の解説は、「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の解説の一部です。
「ポルトガル内戦」を含む「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の記事については、「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ポルトガル内戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ポルトガル内戦」の関連用語

ポルトガル内戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ポルトガル内戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのポルトガル内戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのペドロ1世 (ブラジル皇帝) (改訂履歴)、ミゲル1世 (ポルトガル王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS