廃仏崇儒とは? わかりやすく解説

廃仏崇儒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)

李氏朝鮮」の記事における「廃仏崇儒」の解説

李氏朝鮮儒教王国実現邁進し結果儒教文化栄えたが、「しかしそれは、すべて中国文化縮小版」であった李氏朝鮮文化政策は、一言でいえば儒教一派である朱子学尊重し仏教弾圧した説明される。しかし、太祖李成桂仏門帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多く仏教寺院廃され242の寺のみが国家統制下に残された。第4代世宗時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ仏教寺院所有していた土地奴婢多く没収された。このため高麗時代仏教遺跡破壊されたり、仏像文化財など多く海外へ流出した。たとえば、太宗時代土橋代わりに石橋造ることになったが、十二神将石仏破壊し、その石材にするということ行った。 ただし、李氏朝鮮前期廃仏政策一貫性無く廃仏積極的だった世宗末期には仏教帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教保護し漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君時代破壊され妓生管理する建物建て替えられている。第8代睿宗時代には再び廃仏政策強化され、第11中宗時代李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧厳し時代であったが、中宗3人目王后である文定王后尹氏仏教信奉し中宗亡き後時代には外戚と共に王権執権していたため、彼女の息子王位についていた第13代明宗時代には廃仏政策緩み仏典ハングル訳が出版されたり、仏教復権努めた。しかし、時流は完全に廃仏流れており、仏教復権失敗終わった李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策この様一貫せず一進一退繰り返すが、第16代仁祖時代城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮廃仏政策完成に至る。いまだに残る男尊女卑差別意識年齢信仰はこの儒教思想から来る。

※この「廃仏崇儒」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
「廃仏崇儒」を含む「李氏朝鮮」の記事については、「李氏朝鮮」の概要を参照ください。

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