廃仏棄釈の打撃と余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 00:22 UTC 版)
明治維新以降、神仏分離が推進され、宮中での勅修法会が廃止となって、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い廃仏棄釈も起り、真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している神宮寺が廃されて、神社に改められることもあった。僧籍を離脱して、神社の神職になったり、還俗する僧も現れた。政府は寺院の所有している土地の返納を要求して、強制的に返納または没収措置を取った。勅願所・門跡の称号も禁止され、財政基盤も失って多くの寺院関係が廃寺に追い込まれた。廃仏毀釈の機運に仏教各派も危機感を募らせ、各派が団結して仏教を宣揚して、邪論を廃すべく各宗同盟会を結成した。1869年(明治2年)東京の大徳院にて、各宗同盟会の大会が開催され、高野山明王院主の高岡増隆が推されて盟主となった。神葬祭が盛んであったため無住寺院が増え、そのことでも廃寺は続き、深刻な事態になっていった。
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