廃仏毀釈と徳重神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:10 UTC 版)
廃仏毀釈により妙円寺が廃寺となった後は、その跡地に建てられ神体である義弘の木像を所持する徳重神社へ参拝するようになった。元々は妙円寺に安置されていたこの木像は、徳重神社の奥に神体として安置されている。まだ茂久と名乗っていた頃の島津忠義も妙円寺詣りに参加したことがあり、明治以後は、一般庶民も参加するようになり、小・中学生の集団鍛錬行事としても行われたが、今は市民的行事となっている。 まだ夜に催される行事だった頃の大正2年(1913年)には、午前2時50分に伊集院駅を発車して午前4時に鹿児島市へ到着する汽車が見物客用に運行されていた。戦時中においては、郷中教育を行っていた学舎にとっても特に重要な行事となっており、学舎に入っている子供は他の学舎には負けまいと募集を行って、学舎の舎生ではない友人も連れて行き、人を多く集め参加して、黒山の人だかりができる行事だったと、当時の参加者は証言している。また当時の参加者は、昭和19年(1944年)まで妙円寺詣りは行われ、戦争で焼け野原になった昭和20年(1945年)には中止になったが、ルース台風が来た昭和26年(1951年)10月には妙円寺詣りへ行ったことや、GHQは制度改革の後、神道指令を行うなど日本の精神を根絶やしにするため、日本の精神的な活動について軍国主義に関連すると見なした行事は全て停止させたが、鹿児島におけるローカルな文化の郷中教育や妙円寺詣りなどは引っかからなかったと証言している。なお、少年期の稲盛和夫(京セラ創業者)も参加したことがある。 現在、日新寺と心岳寺の方の習慣は廃れてしまったが、妙円寺詣りは現在も盛んに行われており、『曽我どんの傘焼き』『赤穂義臣伝輪読会』と並び鹿児島三大行事と称されている。 現在の妙円寺は、妙円寺詣りの際には妙円寺にも参拝するよう希望する案内掲示も行っており、徳重神社と妙円寺それぞれの方向を指す矢印が書かれたうえ、日置市のご当地キャラクター『ひお吉』の顔と腕が描かれた看板が、日置市により各所に年中設置されていること等もあり、当日は寺社双方へ参拝する者も少なくない。
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