廃仏毀釈以降とは? わかりやすく解説

廃仏毀釈以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 06:10 UTC 版)

広済寺 (日置市)」の記事における「廃仏毀釈以降」の解説

明治2年1869年)、廃仏毀釈により廃寺となり、跡地墓地となった西南戦争の際には、この場所でも薩摩志士集団自決をしたという。現在、跡地墓地には隣に鹿児島県立伊集院高等学校建てられており、案内看板建てられている入口には阿形あぎょう)の仁王像がある。この仁王像について妙円寺61住職伊藤憲一自身ウェブサイトで、これは広済寺仁王像ではなく妙円寺にある2体の仁王像こそが廃仏毀釈のときに広済寺から運び出されたものと主張していた。他に、本堂鬼瓦残っている。入口近く墓地には、海軍中将有馬正文の墓や、第14代住職・義海の墓、六地蔵塔などがあり、道をさらに奥へと進み一段高くなった場所には、第17代住職・関宗や、第20代住職有山玄怒など歴代住職の墓や、明治16年1883年6月24日亡くなった善福寺最後住職・悟山大道の墓が残されている。 『三国名勝図会』の広済寺には、前門内側日吉山王をまつる鎮守社熊野神社」が、通用門内側には「地蔵堂」が描かれている。この熊野神社は、廃仏毀釈に伴う神仏分離により広済寺廃寺となった後も存在しており、広済寺跡の墓地側にある鹿児島県立伊集院高等学校の脇から入れる、車も入れない細い小道を奥に行った伊集院高校グラウンド隣接した場所に、こぢんまり存在している。熊野神社は現在、地元の者たちによる寄付により改築された社が建っており、上部掲げられ扁額には、「熊野権現日吉山王三寶荒神と書かれており、鳥居の手前にある門柱には、「無格社 熊野神社」と記載されている。熊野神社は「五郎八神社」とも呼ばれており、伊集院高校では体育祭で、花咲かじいさんメロディ乗せごろはち神社願かけて、どちらが勝つかと聞いたれば、我ら〇軍、勝ち、勝ち、勝ち勝ち」という応援歌歌っている。ちなみに広済寺については『伊集院郷土誌』にも詳細記載されている。伊集院駅北口から日置市伊集院総合体育館までの通りは「駅東口線」という通り名があったが、新たに正式名称公募行い新たな伊集院駅舎における橋上改札口と、北口から南口まで繋がる通路2015年6月6日に仮オープンしたのに合わせ同月に「広済寺通りとなった

※この「廃仏毀釈以降」の解説は、「広済寺 (日置市)」の解説の一部です。
「廃仏毀釈以降」を含む「広済寺 (日置市)」の記事については、「広済寺 (日置市)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「廃仏毀釈以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「廃仏毀釈以降」の関連用語

廃仏毀釈以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



廃仏毀釈以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの広済寺 (日置市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS