廃仏毀釈の地域差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 08:50 UTC 版)
廃仏毀釈の度合いについては、全国一律ではなく地域により大きな差があったが、これは主に藩学の普及と、民衆の学力向上の度合いの差による。 浄土真宗の信仰が強い三河国(愛知県東部)や越前国(福井県北部)では、廃仏の動きに反発する護法一揆が発生しているが、それを除けば全体として大きな反抗もなく、明治4年(1871年)頃には終息した。また同年、正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が調査・確定となった。 出羽三山については、明治7年(1874年)以降に廃仏毀釈が始まる。出羽三山で神仏分離が実施され、廃仏毀釈が推進されたのは、明治6年(1873年)9月、西川須賀雄が宮司として着任してからのことであった。西川は教部省出仕大講義では、佐賀藩出身の一人だったとされる。 伊勢国(三重県)では、神宮の鎮座地ということもあって明確な廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100箇所以上が対象となった。特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、明治元年(1868年)11月から翌明治2年(1869年)年3月までに196の寺が閉鎖となったが、これは宇治山田に存在した寺院の4分の3が整理されたことになる。 奈良興福寺でも食堂が明治8年(1875年)に整理される他、興福寺の五重塔は再生用資材(当時価格の25円)で、行財政改革の対象となっていた。大阪住吉大社の塔は、明治6年(1873年)にはほとんどが整理となっている。また、内山永久寺も廃寺となり、安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持つ阿弥陀寺も廃されたが、これは現在は赤間神宮となっている。 明治維新の舵取りである薩摩藩の改革では、藩内寺院1616寺が対象、僧侶2964人すべてが還俗(当時としては僧侶特権からの分離)とされている。この廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属を再利用し、天保通宝の鋳造をもって近代化を目指した。小西孝司によれば、2019年(令和元年)9月時点で鹿児島県内には『宗教年鑑』平成30年版の引用で481寺あるが、国宝や重要文化財の仏像は1点もないとしている。なお、文藝春秋と小西の記事では廃仏毀釈時の寺院の数が異なっている(小西は1066としているが、いつの年月の時点かは記していない)。 美濃国(岐阜県)の苗木藩(東白川村)では、明治初期に廃仏毀釈が行われ、藩内寺院17の寺すべてが対象となっていた。東白川村では、現在でも仏教の信者はほとんど存在せず、葬式は神式(日本式)で実施されるのが通例である。 一方の尾張国(愛知県西部)では、津島神社にあった宝寿院が、仏教に関わる物品を行政から買い取り、存続しているケースもある。
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