はん‐がく【藩学】
読み方:はんがく
⇒藩校
藩学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
林鳳岡の高弟・岡井碧庵を江戸藩邸に招いたり、延宝7年(1679年)に林家の斡旋で、弘文院門弟を召抱えており、当初は幕府が官学として定めた朱子学の方の影響が強かった。 しかし、江戸後期の藩主・牧野忠精が京都所司代となったり、家老の山本精義や家臣高野永貞も古義学を支持した縁で、京から古義学の伊藤仁斎の曾孫となる伊藤東岸を招聘し、荻生徂徠派の古文辞学の秋山景山と同時に藩校・崇徳館の都講に任命される。 これにより藩学の主流は、古義学と徂徠学の2系統並立体制という独特のものとなり、崇徳館内に古義学と徂徠学の講堂がそれぞれ設立された。また、両派ともに寛政異学の禁で「風紀を乱す学」とされた古学であり、これを譜代大名で幕府首脳に所属する藩が藩学とした点でも特殊である。 秋山が引退すると徂徠学は廃され、朱子学がこれに代わるが、なおも古義学との2系統並立がとられた。しかし、河井継之助の藩政改革の一環により古義学が廃され、朱子学に一本化された。ただし、朱子学の講義を担当した高野松陰は佐藤一斎門下であるために、公式上の藩学の朱子学の講義ついでに陽明学を教授していた。このために後世に「陽明学が藩学の主流であった」という誤解を招いているが、公式上の藩学は朱子学で、実態は朱子学と陽明学の並立である。 このように古学や陽明学に寛容であったが、藩校で修学できる身分を士分に限定したり、安政5年(1858年)に洋学の修学を制限したりしている。
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