藩士の過員
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藩財政圧迫のもっとも大きな要因の一つは租税収納の規模に比べて多めの家臣を抱えたことにあるとされる。長岡入封当時は足軽以下600名余うち士分203名(『長峰ヨリ長岡引越御人数帳』)、『寛永分限帳』では士分263名であったが、『寛文分限帳』では士分650名と激増している。すなわち、寛永〜寛文の分限帳間で大身であった今泉勘左衛門(1300石)・山本四郎兵衛(1100石)・贄新五左衛門(700石)が改易等で知行召し上げとなり、また300石以上500石未満の番頭相当以上の上級藩士も20名から11名に半減した一方、20石以上100石未満の中・下級士分が66名から304名に、238名も増員されている。また、足軽(卒分)は入封当初で約400名が、寛文期には鉄砲組・弓組約472名、長柄組102名とやはり増員が見て取れる。この他に町同心32名や中間・郷中間294名もいた。 延宝2年(1674年)に出された「諸士法制十七条」の付則「覚11条」において、藩士の次、三男は当分召抱え不要なので他所に遣わすべきことを命じ、享保13年(1728年)には藩士の次、三男召抱え停止が行われた。 3代藩主忠辰期までに重臣はほぼ固定され、五家老家(稲垣平助2000石、山本帯刀1300石、牧野頼母1200石、稲垣太郎左衛門1200石、牧野平左衛門700石)と先法3家(槇700石、能勢600石、疋田450石)とされた。この8家は幕末まで存続したが、表示の知行高については様々な事情で変動もあり、江戸時代を通じて必ずしも一律ではない。これらの8家に次ぐ300石から450石程度の上級家臣も多く存在し、『安政分限』では16家が存在した。
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