藩士の過員とは? わかりやすく解説

藩士の過員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)

越後長岡藩」の記事における「藩士の過員」の解説

財政圧迫のもっとも大きな要因一つ租税収納規模比べて多め家臣抱えたことにあるとされる長岡入封当時足軽以下600名余うち士分203名(『長峰ヨリ長岡引越御人数帳』)、『寛永分限帳』では士分263であったが、『寛文分限帳』では士分650名と激増している。すなわち、寛永寛文分限帳間で大身であった今泉左衛門1300石)・山本四郎兵衛1100石)・贄新五左衛門700石)が改易等で知行召し上げとなり、また300石以上500未満番頭相当以上の上級藩士20名から11名に半減した一方20石以上100未満中・下士分66名から304名に、238名も増員されている。また、足軽(卒分)は入封当初で約400名が、寛文期には鉄砲組弓組472名、長柄組102名とやはり増員見て取れるこの他町同心32名や中間郷中294名もいた。 延宝2年1674年)に出された「諸士法制十七条」の付則「覚11条」において、藩士の次、三男は当分召抱不要なので他所に遣わすべきことを命じ享保13年1728年)には藩士の次、三男召抱停止が行われた。 3代藩主忠辰期までに重臣はほぼ固定され五家老家稲垣平助2000石、山本帯刀1300石、牧野頼母1200石、稲垣太郎左衛門1200石、牧野平左衛門700石)と先法3家(700石、能勢600石、疋田450石)とされた。この8家は幕末まで存続したが、表示知行高については様々な事情変動もあり、江戸時代通じて必ずしも一律ではない。これらの8家に次ぐ300石から450程度の上家臣多く存在し、『安政分限』では16家が存在した

※この「藩士の過員」の解説は、「越後長岡藩」の解説の一部です。
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