藩営除痘館とは? わかりやすく解説

藩営除痘館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 21:17 UTC 版)

笠原良策」の記事における「藩営除痘館」の解説

こうした状況の中嘉永4年1851年8月福井藩目付石原十郎(?-1863年)を「種痘接続掛り」に任命し組織的な種痘運営体制づくりを開始することになる。運営任され医師74名に上り全体総括する総管」は岩佐玄珪・勝沢一順藩医勤め在国のほぼすべての藩医にあたる40名に、総管助・同書記・種痘方・診察方・種痘手伝等が割り当てられた。それまで種痘中心的に担ってきた笠原三崎雲・山本宗平・大岩主一10名は「鑑定種痘方」に位置付けられた。これ以外の大月斎庵ら24名の町医には種痘手伝応接方が割り当てられそれぞれの出席割当定められた。 そして嘉永4年1851年10月下江戸町に新たに除痘館100畳余)が開設された。その後除痘館安政2年(1855)1月藩医学所(済世館)講堂東側増築併設された(3月竣工、~1870年まで)。 嘉永5年1852年9月頃には福井周辺天然痘大流行し除痘館前に早朝から100人から200人ほどが群集したという。これ以降鑑定方、種痘方等医師出席割当拡充され多数の被種痘児を混乱なく種痘施し善感まで導くための詳細な種痘運営マニュアルである「手続書」 が作成された。種痘担当する目付は、石原十郎のあとは海福猪兵衛・小宮山・出淵伝之丞・市村十郎らによって、65年慶応元)までおよそ14年間にわたって継続された。

※この「藩営除痘館」の解説は、「笠原良策」の解説の一部です。
「藩営除痘館」を含む「笠原良策」の記事については、「笠原良策」の概要を参照ください。

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