藩営除痘館
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こうした状況の中嘉永4年(1851年)8月、福井藩は目付の石原甚十郎(?-1863年)を「種痘接続掛り」に任命し、組織的な種痘の運営体制づくりを開始することになる。運営を任された医師は74名に上り、全体を総括する「総管」は岩佐玄珪・勝沢一順ら藩医が勤め、在国のほぼすべての藩医にあたる40名に、総管助・同書記・種痘方・診察方・種痘方手伝等が割り当てられた。それまで種痘を中心的に担ってきた笠原、三崎玉雲・山本宗平・大岩主一ら10名は「鑑定・種痘方」に位置付けられた。これ以外の大月斎庵ら24名の町医には種痘方手伝・応接方が割り当てられ、それぞれの出席割当が定められた。 そして嘉永4年(1851年)10月、下江戸町に新たに除痘館(100畳余)が開設された。その後、除痘館は安政2年(1855)1月に藩医学所(済世館)講堂の東側に増築・併設された(3月竣工、~1870年まで)。 嘉永5年(1852年)9月頃には福井周辺で天然痘が大流行し、除痘館前には早朝から100人から200人ほどが群集したという。これ以降、鑑定方、種痘方等の医師の出席割当が拡充され、多数の被種痘児を混乱なく種痘を施し善感まで導くための詳細な種痘運営マニュアルである「手続書」 が作成された。種痘を担当する目付は、石原甚十郎のあとは海福猪兵衛・小宮山周蔵・出淵伝之丞・市村市十郎らによって、65年(慶応元)までおよそ14年間にわたって継続された。
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