廃仏論と廃仏毀釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 11:45 UTC 版)
檀家制度や本末制度によって生じた寺院の強権的な立場は、上記のように僧侶の乱行というような問題も生じさせていた。どのような名目であれ、その立場を利用して檀家から際限なき収奪が可能となった寺院には当然、批判が起こった。また、その批判者は儒学者・神道学者・国学者など幅広く、数も多かった。これら批判は江戸時代の初期からあり、そのまま明治維新の廃仏毀釈運動まで江戸時代通して存在し続けた。 これら批判を受けて幕府や藩は、何度か寺院への締め付けを行なっている。例えば1665年の時点で「諸宗寺院法度九ヵ条」を出し、寺院から無教養の僧侶を放逐する、檀家の負担を軽減する、寺に女性を泊めない、離壇の権利を檀家に認めることなどをその中で命じている。寺院の整理も行なわれ、水戸藩や岡山藩は早い時期にこれを決行している。 以上の締め付けもあって、中世のように仏教勢力が一大勢力を築くというようなことは起こらなかったが、それでもこの時代の各種行政サービスを一手に担った寺院の権益を奪いきることは到底できるわけもなく、寺院の腐敗は続いた。明治最初期、多くの寺院の破壊を伴った廃仏毀釈運動が起こるが、その背景にはこのような要因が強く絡んでいた。 もう少し時代が進み檀家制度に拠る寺院経営に綻びが見えると、各宗派からも体質改善や改革といった声が出てくるようになる。これは本来の教え、仏法に帰るべきだという点が強く主張されるあまり、先祖供養などの否定にも及び、後述する檀家から見た現代における仏教のあり方を必ずしも受け止めているものではない。
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