郷中教育とは? わかりやすく解説

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郷中

(郷中教育 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 08:13 UTC 版)

郷中(ごじゅう)は、一定の区域を画して定 められた方限を単位とし、そこに住む中下級武士の子弟から成る集団、あるいは集団の教育組織のことである[1]薩摩藩の郷中では、独自の青少年教育が行われ、郷中教育と呼ばれる[1]。類似するものに、会津藩の「」がある。

概要

郷中の起源は島津義弘によるとされている。郷に住む6歳以上の男子が郷中教育の対象となり、6歳から15歳未満までを「稚児」、元服後から24、25歳までを「二才(にせ)」、それ以上を「長老(おせ)」と呼称した[2]。郷中教育においては、先輩が後輩を指導する形式が採られた[2]。具体的な教育方法は郷の自主性に委ねられた[2]。また、二才については、武士の心構えに関する教育は希薄で、身体鍛錬のみを目的とした団体だった[3]。薩摩藩も二才の粗暴な行為を禁じていた[3]

島津吉貴は、地域ごとに組を編成する体制を整え、組頭に二才の行動を取り締まらせる一方で、学問や武芸の教育は親の責任とした[3]。また、年少者であっても武士の身分と格式の重さを自覚し、武士にふさわしい言動を取ることを求めた[3]。これが方限の稚児指導に繋がったと考えられる[3]薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられた。

安永2年(1773年)、藩校の造士館と武芸稽古場の演武館が創設されると、造士館・演武館以外の場における武術教授や、下級武士による郷中における集団的活動(兵児二才制度における行事など)は禁止された[1]。しかし、幕末に鎌田正純が郷中教育を活性化し、西田方郷中の士風を刷新した[1]。正純は、藩意の下、士風粛正の手段として文武を奨励し、剣術の稽古を出席制で行った[1]

明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。

教育内容

かつては、「島津忠良・貴久連署掟」(天文8年)や「二才咄格式条目」(慶長元年)が郷中教育の起源と言われていた[3]。しかし、文書形式や内容面から、郷中教育の起源と位置づけるのは不適切と明らかになった[3]

以下は、「二才咄格式条目」の内容である。

一.第一武道を嗜むべき事

一.兼ねて士の格式油断なく穿儀致すべき事

一.万一用事に付きて咄外の人に参会致し候はゞ用事相済み次第早速罷帰り長座致す間敷事

一.咄相中何色によらず、入魂に申合わせ候儀肝要たるべき事

一.朋党中無作法の過言互いに申し懸けず専ら古風を守るべき事

一.咄相中誰人にても他所に差越候節その場に於て相分かち難き儀到来致し候節は、幾度も相中得と穿儀致し越度之無き様相働くべき事

一.第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事

一.山坂の達者は心懸くべき事

一.二才と申す者は、落鬢を斬り、大りはをとり候事にては之無き候 諸事武辺を心懸け心底忠孝之道に背かざる事第一の二才と申す物にて候 此儀は咄外の人絶えて知らざる事にて候

右条々堅固に相守るべし もしこの旨に相背き候はゞ二才と言ふべからず 軍神摩利支天八幡大菩薩 武運の冥加尽き果つべき儀

(略訳)

  • まず武道を嗜むこと
  • 武士道の本義を油断なく実践せよ
  • 用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
  • 何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
  • 同輩に無作法なことを、やたらに話しかけるものではない。古風を守るべし
  • グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
  • 嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
  • 忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
  • 山坂を歩いて体を鍛えよ
  • 二才(薩摩の若者)は髪型や外見に凝ったりするものではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである

これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才を名乗る資格はなく、軍神摩利支天八幡神の名において、武運尽き果てることは、疑いなきことである。

その他に「負けるな」「弱いものいじめをするな」「たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない」「金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと」なども記されている。

郷中一覧

当初の数は18であったが、幕末の頃には33と増加している。

上方限

  • 紙屋谷
  • 上ノ原
  • 城ヶ谷
  • 岩崎
  • 冷水
  • 屯田
  • 後迫
  • 韃靼堂
  • 清水馬場
  • 中ノ町
  • 福昌寺
  • 内ノ丸
  • 横馬場
  • 中村
  • 実方

下方限

出典

  1. ^ a b c d e 竹下幸佑・酒井利信「近世の薩摩藩郷中における武芸教育に関する史的研究」『武道学研究』42(Supplement)、日本武道学会、2009年、2頁、doi:10.11214/budo.42.2 
  2. ^ a b c 郷中教育とは|第34回 日本超音波検査学会”. www.jss.org. 2025年7月14日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 安藤保「郷中教育の成立過程 (上) -「咄相中から郷中へ」の諸問題について-」『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編』第42巻、鹿児島大学、1991年3月、199-213頁。 

関連項目




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