仏教弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽への遷都を進めた。崇儒廃仏政策をとり、儒教の振興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。 李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。 一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。明に対しては徹底的な親明政策を執り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封された。太宗は1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示した。 次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで李芳遠が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に政治制度を切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻して制圧し、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。
※この「仏教弾圧」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
「仏教弾圧」を含む「李氏朝鮮」の記事については、「李氏朝鮮」の概要を参照ください。
仏教弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:07 UTC 版)
ところが仏教を拝んだせいで疫病が流行したと考えた物部守屋と中臣勝海が、3月1日に天皇から仏法を断てという詔を得た。佐伯御室が馬子のもとに遣わされた。役人は、引き渡された善信尼の三衣(袈裟)を奪い、禁固して、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の亭(駅舎)で鞭打った。 蘇我馬子は自分の病の治療には三宝(仏法僧)の力が必要だと天皇に願い出た。天皇は、馬子が独りで仏法を行うことを許し、善信尼らの禁固を解いた。馬子は歓喜して尼を拝み、精舎を新たに建てて住まわせた。
※この「仏教弾圧」の解説は、「善信尼」の解説の一部です。
「仏教弾圧」を含む「善信尼」の記事については、「善信尼」の概要を参照ください。
- 仏教弾圧のページへのリンク