仏教徒のイエスに対する考え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 09:25 UTC 版)
「仏教とキリスト教」の記事における「仏教徒のイエスに対する考え」の解説
ダライ・ラマ14世を含む何人かの仏教徒は、イエスを人の幸福のために身をささげたボーディ・サットヴァだとみなしている: イエス・キリストも過去世を生きました。だから、ご承知の通り、彼は仏教の実践を通じてボーディ・サットヴァ、つまり啓蒙された人間と同じ高みに到達したのです。 イエスもブッダも、当時の一般的な宗教的慣習に代わる過激な教えを唱道した。彼らが反対する宗教的権威に言及するとき、盲人の列という一般的なメタファーの使用のような類似が時々見られる(ディーガニカーヤ 13.15, マタイによる福音書 15:14)。仏教徒の中には、仏教(あるいは一般的に東洋の精神的な思想)とトマスによる福音書のようなグノーシス主義のテクストの教義の間に、特に強く類似が見られると考えている者もいる。ただし、トマスによる福音書は外典である。 14世紀の禅僧である峨山韶碩は、弟子の一人が福音書に含まれる物語を読んだ際、福音書は悟りを得た存在によって書かれたものであることを指し示した: 「そしてなぜあなたがたは着る物の心配をするのか。野に咲く百合の花を考えてみよ、それらがいかに育つのかを。彼らは骨折って働くわけでも、紡ぐわけでもない。さらに私はあなた方に言う。栄華を極めたソロモンですら、百合の花ほども着飾らなかった[…]それゆえ明日のことなど考えるな、というのは明日には明日の考えがあるからだ」 峨山は言った:「私はこのような言葉を発する者は、誰であろうとも悟りを得た者だと見よう。」
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