儒教の振興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:32 UTC 版)
光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制を整備したことが挙げられる。29年(建武5年)、洛陽に太学を設けて儒学を講じさせたり14名の五経博士を設けた 他、時期を同じくして各地に私学が設けられ、当地の学者が門弟を集めて経書を講義するようになった。 また、官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が重視され、36年(建武12年)には三公らが毎年一定数の孝廉を推挙するよう規定された。さらに56年(建武中元1年)には洛陽に教化・祭礼の施設として明堂・霊台・辟雍を設置した。 光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。光武帝は即位時に上述の『赤伏符』の予言に拠った他、三公の人事や封禅の施行の根拠として讖文を用いたこともあり、讖緯説を批判した儒学者は用いられなくなった。最晩年の57年(建武中元2年)には図讖を天下に宣布することを命じた。
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