軍事遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:25 UTC 版)
アッシリアの政情不安に乗じて自由を獲得しようとしていた従属諸国は、恐らく新たな王エサルハドンが彼らを制圧するのに十分なほど足場を固めていないと考えていたが、これらの従属諸国や領土拡大に熱心な外国勢力は(エサルハドンの不信にも関わらず)アッシリアの総督たちと兵士たちが完全にエサルハドンを支持していることをすぐに認識することになった。アッシリアにとって2つの重要な脅威はルサ2世統治下にある北方のウラルトゥと遊牧民キンメリア人である。アッシリアの仇敵であるウラルトゥは未だエサルハドンの兄弟たちを保護しており、キンメリア人はアッシリアの西部国境をかく乱していた。エサルハドンはキンメリア人の攻撃を抑制するために騎兵で名高い遊牧民のスキタイ人と同盟を結んだが、効果はなかったものと見られる。前679年、キンメリア人はアッシリア帝国の西端の属州に侵入し、前676年までにはさらにアッシリア内部に入り込んで、経路上の神殿と諸都市を破壊した。キンメリア人の侵略を食い止めるため、エサルハドンはキリキアにおける戦いで自ら兵士を率い、キンメリア人を退けることに成功した。エサルハドンは碑文においてキンメリアの王テウシュパ(英語版)を殺害したと主張している。 キンメリア人の侵入の最中、レヴァントのアッシリアの属領であったシドン市がエサルハドンの統治に対して反旗を翻した。シドンは前701年にエサルハドンの父センナケリブによってアッシリアに征服され臣下となったばかりであった。エサルハドンは地中海沿岸沿いに軍を進め、前677年にシドンを占領したが、その王アブディ・ミルクッティ(英語版)は小舟で逃亡した。彼は1年後に捕縛され処刑された。同年にエサルハドンはキンメリア人に対して決定的な勝利を得た。反乱を起こしていた他の属王である「クンドゥ(Kundu)とシッス(Sissu)」(恐らくキリキアにあった)のサンドゥアリ(Sanduarri)もまた破られて処刑された。勝利を祝うため、エサルハドンはこの2人の属王の頭を、彼らの貴族たちの周囲に吊るしてニネヴェでパレードさせた。シドンは領土を縮小させられてアッシリアの属州となり、かつてシドン王に属していた2つの都市の支配権は別の属王であるテュロス市のバアル1世(英語版)に与えられた。エサルハドンは同時代の碑文でシドンに対する勝利を論じている。 我が威を恐れぬシドンの王、アブディ・ミルクッティ(Abdi-milkutti)は我が唇から紡ぎだされる言葉を鑑みることなく、恐るべき海を信頼し我が軛を投げ捨てた - シドン、彼が拠るこの都市は海の中にあり、[欠落]魚の如く、余は彼を捕らえて海から出し、首を切り落とした。彼の妻、息子たち、宮殿の者ども、財産と品々、宝石、染め上げられた羊毛と亜麻の衣服、カエデとツゲの木、彼の宮殿に満ち満ちたあらゆる種類のあり余る宝物を、余は運び出した。彼の国中に散らばっていた人々 - 数えることができないほど多くの人々、ウシ、ヒツジ、ロバを、余はアッシリアへと運んだ。 シドンとキリキアの問題に対処した後で、エサルハドンはウラルトゥに注意を向けた。まず彼はウラルトゥと同盟を結んでいたマンナエ人を攻撃したが、遅くとも前673年までにはウラルトゥ本体との戦争に踏み切った。この戦争の一環として、エサルハドンはウラルトゥの属国であるシュプリア(英語版)王国(Shupria)を攻撃して征服した。この王国の首都ウブム(英語版)はヴァン湖岸にあった。この侵攻におけるエサルハドンの「開戦事由(casus belli)」は、シュプリア王がアッシリアからの政治亡命者(恐らくセンナケリブの死に関与した一党の一部)の引き渡しを拒否したことである。シュプリア王は一連の書簡による長いやり取りで諦め、亡命者たちの引き渡しに同意したが、エサルハドンは同意にいたるまで時間がかかり過ぎたと考えた。ウブムの防衛軍はアッシリアの攻城兵器を焼き払おうと試みたが失敗し、火は逆に町の中に広がった。その後アッシリア軍は町を占領・略奪し、亡命者たちは捕らえられて処刑された。シュプリア王はウラルトゥの罪人についても同様にウラルトゥへの引き渡しを拒否していたが、彼らもアッシリアに捕らえられた後、ウラルトゥへ送還された。これは恐らく関係改善のための処置である。ウブム市は修復され、改名された後にアッシリアに併合され、2名の宦官が総督として任命された。 前676年頃にはザグロス山脈やタウロス山脈方面に遠征して現地を押さえ、更にイシュクザーヤ(スキタイ)の王バルタトゥア(英語版)に娘を嫁がせて遊牧民との関係改善を図った。 前675年、エラム人がバビロニアに侵攻しシッパル市を占領した。この時アッシリア軍は遠征のため遠く離れたアナトリアにいたが、南部属州の防衛のため、アナトリアへの遠征は放棄された。このエラムとの武力衝突とシッパル市の失陥は恥ずべきことであり、エサルハドンが碑文でこれに言及することはなく、ほとんど記録に残されていない。すぐ後のシッパル包囲戦でエラム王フンバン・ハルタシュ2世(英語版)は死亡し、新たなエラム王ウルタク(英語版)が困難な状況を引き継いだ。アッシリアとの関係を回復し新たな衝突を避けるため、ウルタクはバビロニアへの侵攻を取りやめ、エラムが接収していた複数の神像を返還した。エサルハドンとウルタクは同盟を結び、お互いの子供を交換してそれぞれの宮廷で育てることとした。 エサルハドンの統治第7年の終わり近く(前673年の冬)に、エジプト侵攻が行われた。この侵攻について論じるアッシリアの史料は僅かで、一部の学者はアッシリアにとって恐らく最悪の敗北の1つに終わったと想定している。エジプトは何年にもわたりアッシリアの反抗者たちを支援しており、エサルハドンはエジプトを襲撃して彼らを一網打尽にすることを望んでいた。エサルハドンが急速に軍を前進させた結果、アッシリア軍はエジプト支配下のアシュケロン市の外側に到着した時には疲労困憊しており、エジプトを支配していたクシュ人の王タハルカ(英語版)によって打ち破られた。この敗北の後、エサルハドンは当面、エジプト征服の計画を放棄することとし、ニネヴェへと引いた。
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