イファト・スルタン国とは? わかりやすく解説

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イファト・スルタン国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 04:25 UTC 版)

イファト・スルタン国(IFAT)の領域。1300年頃。

イファト・スルタン国(1285年頃 - 1415年頃)は現在のエチオピア首都アディスアベバ周辺から東を支配していたイスラーム教徒の国。

14世紀の歴史家イブン・ファドルッラー・アル=ウマリー英語版は、紅海沿岸に旅程15~20日の大きさの国があり、その国は騎兵1万5千、歩兵2万を有しており、その主要7都市はベルクルザール、クルジュラ、シミ、シェワ、アダル、ジャメ、ラボーであったと報告している[1]。イファトはおそらくこの他にファタガル、ダワロ、バレといった都市を支配しており、港湾都市ゼイラまでの交通路を押さえていた[2]。その中心部はワララーであり、現在のアディスアベバから東北東80キロメートルの位置にあるワラレのことと考えられている。その領域は、東はアワッシュ川(エチオピアとジブチの国境付近)、西はジャマ川英語版、その北はアバダイ川英語版であったと推定する研究者もいる[3]

ゼイラ
アダル
シェワ
イファト
関連地図(国境は現在のもの)

歴史

エチオピアは古代から象牙などを港町ゼイラなどを通じて輸出していた。その輸送を請け負ったのはイスラーム商人であり、10世紀末~11世紀始め頃から活動が盛んになった[4]。イスラーム勢力はその輸送ルートを通じて内陸部に徐々に浸透していき、11世紀頃にはシェワ英語版にまで達していた[5]。後にエチオピア帝国の首都となるシェワであるが、その直前はキリスト教徒とイスラーム教徒が混在する地域であった。エチオピアのザグウェ朝が南部のイクノ・アムラクらの勢力(後のエチオピア帝国)に滅ぼされたのは、このルートを通しての交易が盛んになってイクノ・アムラクらが活動していた地域の重要性が増したからという一面もある[6]

イファトの名が歴史に登場するのは13世紀である。1285年、イファト王のウマル・ワラシュマあるいはその息子アリが、シェワ英語版のイスラーム国家を征服したことが記録されている。エチオピア帝国の初代皇帝イクノ・アムラクも同時期にシェワを狙ったため[7]、2勢力は長く争うことになった。イファト側の勢力は必ずしも一枚岩ではなく、戦いは全体的にはエチオピア有利であった[8]。イファトは最終的にはエチオピア皇帝アムダ・セヨン1世英語版に打ち負かされ、イファト王がジャマールッディーン1世英語版から兄弟のナスルッディーン()に変えられてエチオピアの属国となった。この時点で、イファトの支配領域はゼイラにまで及んでいた[9][10]

しかしこの後も、イファトの反乱は続いた。15世紀始め、エチオピア皇帝は再び「君主の敵」を倒すためにイファトに侵入した。イファトは破れ、王のサアドッディーン2世英語版はゼイラへと逃亡したが最終的に殺された。このときの経緯について、中世の歴史家アル=マクリーズィーは、1403年にエチオピア皇帝ダウィト1世英語版がアダルの王サアド・アドディンを殺したと記しているが(アダルもサアドッディーンの支配地だった)、1415年にエチオピア皇帝イシャク1世英語版が殺したとする話もある[11]。イシャク1世は戦勝を記念した歌を作っており、この歌詞に「ソマリ」の名が文献として初めて登場する[12]

この戦いによって一時イスラーム勢力が力を落としたが、間もなくイファトの支配者の一族が復活してアダルを中心にアダル・スルタン国を建て、イファトにも再びイスラーム教徒が住んだ。さらにその後はオロモ人の土地となった。イファトの名称は、エチオピアオロミア州の中の土地の名として残されている。

脚注

  1. ^ G.W.B. Huntingford, The Glorious Victories of Ameda Seyon, King of Ethiopia (Oxford: University Press, 1965), p. 20.
  2. ^ Taddesse Tamrat, Church and State in Ethiopia (1270-1527) (Oxford: Clarendon Press, 1972), p. 84.
  3. ^ G.W.B. Huntingford, The historical geography of Ethiopia from the first century AD to 1704, (Oxford University Press: 1989), p. 76
  4. ^ 岡倉:1999
  5. ^ 川田:2009
  6. ^ ユネスコ:1992
  7. ^ Taddesse Tamrat, Church and State, p. 125
  8. ^ "Ethiopia: Growth of Regional Muslim States" (accessed 4 November 2009)
  9. ^ britannica.com Ifat
  10. ^ The Glorious Victories, p. 107.
  11. ^ J. Spencer Trimingham, Islam in Ethiopia (Oxford: Geoffrey Cumberlege for the University Press, 1952), p. 74 and note explains the discrepancy in the sources.
  12. ^ Mohamed Diriye Abdullahi "Culture and Customs of Somalia" p.16, 2001, Greenwood Press, ISBN 978-0313361371

参考文献

  • 川田順造 編『アフリカ史』山川出版社、2009年。ISBN 978-4-634-41400-6 
  • 『ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻』同朋舎出版、1992年。 ISBN 4-8104-1096-X 
  • 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、1999年。 ISBN 4-7503-1206-1 

関連項目

外部リンク


イファト・スルタン国

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ゼイラ・アンド・ルーガヤ国」の記事における「イファト・スルタン国」の解説

詳細は「イファト・スルタン国」を参照 イファト・スルタン国はアフリカの角存在した中世王国である。1285年にワルシャマ王朝によって建国されゼイラ中心としていた。イファト国はソマリア北部拠点を置き、そこからアフマ山脈向かって南方広がった1285年国王ウマー·ワラシュマ(もしくは彼の息子アリ)がシェワを征服したとして記録されている。エチオピアの歴史家Taddesse Tamratは、同時期に皇帝イクノ·アムラクがキリスト教徒領土統一しようとしていたのと同じように、ウマー軍事遠征を、アフリカの角イスラム教徒領土統一する試みとして説明している。これら2つ国家必然的にシェワやさらに南の国家と衝突した長い戦争続いたが、当時イスラム教徒スルタン強く統一されていなかった。イファトは最終的に1332年エチオピア皇帝アムダ・セヨン1世敗北し、シェワから撤退した

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