イピロス専制公時代
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「ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニ」の記事における「イピロス専制公時代」の解説
ニキフォロスはヨアニス6世の婿としてその政権を支え、ヨアニス6世のもう一人の婿ヨアニス5世パレオロゴスが成年に達して義父と争った時も義父を支援し続けた。しかし1354年にヨアニス6世が廃位され、翌1355年にセルビア王ドゥシャンが死去すると、東ローマ宮廷とカンダクジノス家(まだ共同皇帝マテオス・カンダクジノスが抵抗していた)に対する忠誠心を捨て、単独でヨアニス5世と和解してトラキアを離れ、帰郷の途に就いた。 当時のイピロスはドゥシャンの弟シメオン専制公が統治していたが、ドゥシャン死後、各地で自立した諸侯の対立に巻き込まれその勢力は不安定であった。ニキフォロスはその不安に乗じ、また唯一の正統なドゥカス・コムニノス・アンゲロス家の後継者に期待する地元民に歓迎されてイピロスとセサリアを掌握しシメオンとその妻ソマイス(ニキフォロス自身の姉妹)をマケドニアのカストリアに追放した。エノスに残してきた妻マリアも間もなくしてセサリアに到着し、二人はアルタで支配を開始した。 念願の帰郷と旧支配権の回復を果たしたニキフォロスであったが、問題が幾つも存在していた。1347年にこの地域を襲ったペストと1348年以来続いたセルビア支配はこの地域の住民構成を大きく変えてしまっていた。ギリシア系人口は減り、代わってセルビア人、それ以上にアルバニア人が多数この地域に南下し定住を始めつつあった。ニキフォロスはこれに対抗する為セルビア人との提携を目論み、その為に妻マリアを離婚して故ドゥシャン王の妻の姉妹(即ちブルガリア王女)との結婚を企てた。しかし、これに対してギリシア人、アルバニア人住民が一斉に反発し、ニキフォロスの立場は却って危うくなった。マリアはミストラスにいた弟のモレアス専制公マヌイルの許に身を寄せていたが、セルビア王家との縁組みを断念した夫に呼び戻される事になった。しかしニキフォロスは妻の帰国を待たずにアルバニア人の武力討伐に乗り出し、アヘロオス河畔の戦い(1359年)で逆に打ち破られて戦死した。再建されたイピロス専制公領は僅か三年であっけなく瓦解してしまった。 未亡人となった妻マリアは弟マヌイルの手でコンスタンティノポリスにて修道院入りしていた母イリニの許に送り届けられた。彼女はそこで修道女となり残る余生を送った。彼女とニキフォロスとの間にはメテオラ修道院の一つアギオス・ステファノス修道院の創立者と目される修道士アンドニオス・カンダクジノス(1423年没)が生まれている。また、彼とは別にマヌイルという名の息子がいたという説もある。 ニキフォロスの死は、父ジョヴァンニ2世のそれと同じくイピロス専制公領史の大きな転換点となった。彼はドゥカス・コムニノス・アンゲロス家に連なる最後の君主となった。また、イピロスとセサリアを一人で統治した中世最後の君主となった。彼の短い統治はそれ自体がイピロス地方史に於ける大きな転換期の最中に位置している。それは人口構成の変動、アルバニア人の自立と国家形成、イピロス・セサリアの地域的分断の時期であった。しかしニキフォロスはそうした時代の変化にうまく対応出来ず、力で彼らを押さえ込もうとして失敗した。彼の後にイピロスに帰還し支配権を掌握したシメオン・ウロシュはその轍を踏まなかった。彼はアルバニア人に譲歩して彼らに自治を与え、緩やかな宗主権による統合に満足した。しかしこれ以降、イピロス、セサリアは事実上分裂の時代を迎える。この地域が一つの国家の許に統合するのはオスマン朝時代になってからの事であり、キリスト教徒による統合は1912年のバルカン戦争(第一次)による近代ギリシアの両地域併合まで待たねばならない。 (本項目の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照。また国号については「専制公国」とした) 先代: ジョヴァンニ2世オルシーニ イピロス専制公 1335年 - 1340年1356年 - 1359年 次代: シメオン・ウロシュ
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