イピロス戦線とは? わかりやすく解説

イピロス戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 05:06 UTC 版)

第一次バルカン戦争」の記事における「イピロス戦線」の解説

イピロス戦線では、ギリシャ軍劣勢兵力開戦迎えたが、オスマン帝国軍消極的な対応のため、1912年10月21日プレヴェザ占領成功し、ついでヨアニナ向かって北進続けた11月5日にはケルキラコルフ)から出撃したギリシャ軍小部隊が、ヒマラ海岸上陸しさしたる抵抗受けず占領した。さらに、11月20日には、マケドニア西部から侵入したギリシャ軍コルチャへと入城したしかしながらギリシャ軍のイピロス戦線の初期兵力では、ビザニに築かれドイツ式要塞攻め落とすことはできず、ビザニ防衛線に守られヨアニナへは進軍できなかった。ギリシャ軍停止してマケドニア戦線からの増援部隊を待つことになったマケドニア戦線決着がつくと、ギリシャ軍は、その主力王太子自らが率いてイピロス戦線へ転進させた。そして、ビザニの戦いen)でオスマン軍防衛線を突破し1913年3月6日ユリウス暦2月22日)にヨアニナ占領した。ビザニ攻城戦最中1913年2月8日ロシア人パイロットのニコライ・サコフ (Николай Ставрович Саков)が操縦するギリシャ軍複葉機が、ビザニ要塞城壁爆撃しようとした際に、対空砲火によって撃墜された。これは、世界戦史上初めての軍用飛行機の被撃墜記録であった。サコフの機はプレヴェザレフカダ島北方対岸近く不時着し、親ギリシャ住民救助され修理行い、再び離陸して基地へと戻ったヨアニナ陥落により、ギリシャ軍イピロス北部アルバニア南部)へと侵攻続けることができ、同地域を占領したギリシャ軍進軍停止した時、その前線北方セルビア軍支配地まで間近であった

※この「イピロス戦線」の解説は、「第一次バルカン戦争」の解説の一部です。
「イピロス戦線」を含む「第一次バルカン戦争」の記事については、「第一次バルカン戦争」の概要を参照ください。

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