領史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/06 17:13 UTC 版)
木下氏は桓武平氏貞盛の後裔で杉原氏を名乗っていた。豊臣秀吉の正室ねねの実家にあたることから血縁の少なかった秀吉に重用され、豊臣姓木下氏を名乗るようになった。ねねの兄にあたる木下家定が播磨姫路2万5千石、その長男・勝俊が若狭後瀬山8万石、次男・利房が若狭高浜城2万石を与えられ厚遇された。その後、勃発した関ヶ原の戦いで領地没収された嫡男勝俊と次男・利房が父の没後に足守藩主となったものの、領地の配分でもめ、足守は一時幕府領になった。なお、その後の大坂の陣で徳川についた利房は足守藩主に復帰しており、三男延俊と併せて大名としてそれぞれ徳川政権下に残存することとなった。 こうして木下延俊は豊後日出藩主として入部したが、後継者となりうる男子が2人いた。俊治と延由である。両人は同年の生まれで、共に側室の生んだ子なので、どちらが家督を相続してもおかしくない状況だった。そこで、延俊は寛永19年(1642年)の臨終に際し、延由に対して「立石1万石を分知するように」と遺言をした。この遺命に従い、第2代藩主となった俊治によって立石5村と向野3村の都合5千石が延由に分知されることとなった。正保3年(1646年)、延由は家臣を率いて立石に入り、立石領が成立する。 この時点での分知は幕府に認められた公式なものではなく、内分分知として行われたものだったが、寛文4年(1664年)に至り幕府の朱印状が発行され、延由は交代寄合の旗本となった。この間に日出藩と立石領とは一時絶縁状態に至り、これは双方が代替わりによる和睦を結ぶまで続いた。家老の長澤市之亟はこの分知が幕府に許可された後に自害している。 その後、立石領は代を重ねて11代俊清の時に明治に至り、本藩である日出藩と共に廃藩置県を迎えた。
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