コンスタンディノスの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:06 UTC 版)
「モレアス専制公領」の記事における「コンスタンディノスの治世」の解説
1443年、兄セオドロス2世に変わってミストラスの専制公となったコンスタンディノスは、東ローマ帝国復興の為に更に野心的な計画に着手する。北方で結成された対オスマン連合、ヴァルナ十字軍に呼応する形でギリシア本土への侵攻作戦を開始したコンスタンディノスはオスマン帝国の属国であったアテネ公国を服属させてアッティカ地方を支配下に入れ、更にはセサリア南部にまで勢力を拡大する事に成功した。しかし北方の十字軍がヴァルナの戦い(1444年)で壊滅的敗北を被ると、この遠征計画も中止され、専制公軍は半島に撤収した。1446年11月、オスマン帝国のスルタン・ムラト2世(1421年 - 1451年)はアテネ公国への侵攻の報復としてペロポニソス侵攻を行い、エクサミリオンを破壊して半島北部を蹂躙した。コンスタンディノスは和平を結びオスマンに従属する事を余儀なくされた。この遠征計画は、半島全土の統一と並ぶ専制公領史の極点であると同時に、当時の東ローマ帝国・モレアス専制公領の持つ活力の限界を示していたとも言える。
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