アナトリアへの軍事遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 19:36 UTC 版)
「ネルガル・シャレゼル」の記事における「アナトリアへの軍事遠征」の解説
ネルガル・シャレゼルの治世3年目、紀元前557年に、彼はアナトリアへの軍事遠征を成功させた。同時代の年代記に記録されている(主にABC6の年代記)。この軍事遠征は、ピリドゥ(Piriddu。またはピリンドゥ Pirindu)の王であるアップワシュ(Appuwashu、またはアプアシュ Appuašu)がシリアへの攻撃を計画しているという噂に対応したものだった。この攻撃に対抗するため、ネルガル・シャレゼルは軍隊をヒューム(新アッシリア帝国の崩壊以来ずっとバビロニアの支配下にあったキリキア東部)に進軍させた。ヒュームの西の領土の一部を支配していたアップワシュは、バビロニアの前進を阻止するために待ち伏せ攻撃を準備したが、ネルガル・シャレゼルはこれを破って25キロメートル(16マイル)以上もキリキア海岸沿いの山岳地帯を追跡し、首都ウラに逃れたアップワシュをさらに攻撃、これを陥落させて略奪した。 キルシュを占領した後、ネルガル・シャレゼルは3キロメートル沖合のピツス島に対して水陸両面からの攻撃を行い、リディアの国境にあるサルーンの集落に至る峠道に瓦礫をおいて封鎖した。アップワシュはネルガル・シャレゼルの猛攻撃から逃れたが、軍事遠征によりネルガル・シャレゼルはピリドゥに対するバビロニア支配を確立し、この小王国をバビロニア、リュディア、メディアという三つの大国間の緩衝地帯に変えることに成功した。 ABC6の年代記に記録されている軍事遠征の説明は、以下のとおりである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ピリンドゥの王アプアシュは大軍を召集し、シリアを略奪しようと試みた。ネグリッサル(ネルガル・シャレゼル)は彼の軍隊を召集し、彼に対抗するためにヒュームに向かって行進した。ネグリッサルが到着する前に、アプアシュは待ち伏せするため、兵士と騎兵隊を山の谷に置いた。ネグリッサルは到着すると、彼らに敗北を負わせ、その大軍を破った。その軍と多数の馬を捕らえた。彼はアプアシュを追跡し、15昼夜の距離を追って険しい山々を進んだ。その首都ウラまでの道のりは、1人の人間がやっと通るぐらいの幅しかなかった。彼はアプアシュを捕らえ、ウラを占領し、略奪した。ウラから彼の父祖の首都であったキルシまで、険しい山々と困難な峠を通って6昼夜の距離を行進した後、彼は強大な都市であるキルシを占領した。彼はその城壁と宮殿、そして住民を焼いた。 6000人の兵士が守る、海に浮かぶピトゥスを彼は船で占領した。彼はその街を破壊し、人々を捕らえた。 その同じ年に、サルーンの峠からリディアの国境まで、彼は火を放った。 アプアシュは逃げ、彼を捕まえなかった。 紀元前556年2月、ネルガル・シャレゼルは首都に帰還した。この移動には、おそらく約50日かかったと思われる。彼の軍事遠征がバビロニアの中心地から遠く離れて行われたということは、メディア国からの支援を受けたか、あるいはアナトリア地方におけるメディアの影響を軽減させることを目的として行われた可能性がある。
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