アナトリア、バルカン半島での征服事業
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「バヤズィト1世」の記事における「アナトリア、バルカン半島での征服事業」の解説
即位後、ムラト1世の崩御を好機と見たアナトリアの領主たちが反オスマンの動きを見せ始める。 アナトリアにおける最大のライバルであるカラマン侯国(英語版)の君主であり、バヤズィトの義弟でもあるアラー・アッディーン(英語版)はサルハン侯国、アイドゥン侯国、メンテシェ侯国と共にオスマン領に侵入、ゲルミヤンの君主でバヤズィトの義兄弟であるヤクブ2世(トルコ語版)もオスマンに割譲された都市を奪回する動きを見せていた。バヤズィトはセルビアと和約を結んでアナトリアに渡り、1390年より父の征服事業を引き継いでのアナトリア遠征を開始する。遠征軍にはビザンツ帝国、セルビア、ブルガリア、アルバニアなどのバルカン半島の臣従国も参加しており、アナトリアに残っていた最後のビザンツ領であるフィラデルフィア攻略にはビザンツの皇子マヌエルも従軍していた。遠征によってサルハン、アイドゥン、メンテシェ、ハミド侯国といったアナトリアのベイリクを征服し、ヤクブ2世を逮捕してイプサラ(英語版)に送り、ゲルミヤンも支配下に置いた。1391年にカラマンの首都コンヤを包囲し、アラー・アッディーンにアクシュヒル(英語版)、ニーデ、アクサライの割譲を認めさせての有利な和約を結ぶ。 1391年にビザンツ皇帝ヨハネス5世が崩御すると、アナトリア遠征に従軍していたマヌエルはバヤズィトに無断でブルサを脱出し、コンスタンティノープルに帰還し帝位に就いた。マヌエルの帰還後に7か月の間コンスタンティノープルの包囲するが、ハンガリーが軍事活動を開始する動きを見せると、貢納と引き換えにマヌエルの即位を認めて包囲を解除した、1393年末よりモレアス専制公テオドロス1世がオスマンの従臣を攻撃して領地を広げると、マヌエル兄弟の反逆行為に激怒したバヤズィトはバルカン半島の従臣を召喚して彼ら兄弟に処罰を与えようとした。マヌエル、テオドロスは臣従の誓いを破棄し、1394年夏より7年にもわたるコンスタンティノープル包囲が開始された。 コンスタンティノープル包囲の間にもバヤズィトは別働隊をバルカン半島各地に派遣し、テッサリア、セルビア、ブルガリアを攻めてドナウ川に至る通行路を掌握した。オスマン帝国に従属していたブルガリアが、バヤズィトがバルカン半島を留守としたことを好機と見て1393年にハンガリーの支援を受けて反乱を起こすと、ブルガリアに討伐軍が派遣される。3か月の包囲の末に同年7月17日にブルガリアの首都タルノヴォを陥落させ、ニコポリスに逃れていたブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(英語版)を一時的に帝位に留める。 タルノヴォ攻略後にバヤズィトはワラキア国内に存在するワラキア大公ミルチャ1世の政敵を援助して反乱を起こさせ、ワラキアへと軍を進めた。1395年5月にオスマン軍はミルチャ1世に勝利を収めるが、同年7月17日のロヴィネの戦い(英語版)で敗北、ドニエプル川南岸までの退却を余儀なくされる。また、ワラキア遠征においてブルガリアに乱立していた僭主国を併合、遠征の帰路でイヴァン・シシュマンを処刑してブルガリアの大部分を手中に収める。ブルガリア内で独立を保っていた勢力はオスマンに臣従を誓っていたヴィディン王国のみであった。 セルビア公ステファン・ラザレヴィチ(英語版)に対しては北セルビアの領有権を認め、ラザレヴィチも貢納と兵力の提供を積極的に行った。このため両国の間には長期の平和がもたらされ、セルビアは経済的な繁栄を享受する。
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