アナトリアでの敗北、最期
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「ジャラールッディーン・メングベルディー」の記事における「アナトリアでの敗北、最期」の解説
コーカサスの連合軍に勝利した後、1229年7月よりジャラールッディーンは第二次アフラート包囲を開始する。アフラート攻略中にアーミド(現在のディヤルバクル)のアルトゥク朝、エルゼルムなどのアナトリア東部の領主から臣従の誓いを受け、アッバース朝のカリフ・ムスタンスィルと講和し、ペルシア王の地位とシャーハンシャーの称号を認められる。6か月の包囲の末にアフラートを占領し、欠乏した物資を補うために市内を略奪した。アフラート包囲の最中、ジャラールッディーンはルーム・セルジューク朝のスルターン・カイクバード1世に使者を送り、東西の非イスラム勢力に対抗するための同盟を結ぶことを提案する。しかし、締結の条件とエルゼルムの帰属を巡って交渉は決裂し、カイクバード1世はアフラートのアシュラフと同盟を結んだ。 カイクバード1世とアシュラフの連合軍がアフラートに進軍すると、ジャラールッディーンはエルゼルムの領主ルクヌッディーン・ジハーンシャーと共に彼らを迎え撃った。ホラズム軍の兵士は各地に分散していたため十分な数が集まっていなかったが、なおも進軍を止めなかった。1230年8月にエルズィンジャン近郊のヤッス・チメンで20,000のルーム・セルジューク朝=アイユーブ朝連合軍と交戦するが、ホラズム軍は大敗を喫する。ジャラールッディーンはカイクバード1世、アシュラフと講和するが、配下の将校は彼を見限り、勢力を減退させる。さらに、モンゴル帝国の大ハーン、オゴデイが派遣した追討軍がイラクに迫った。 ムーガーン平原の戦いでチョルマグンが率いるモンゴル軍に敗れたジャラールッディーンはカパンに逃れ、アシュラフに連合の結成を説いた。また、ホラズム軍の敗戦はタブリーズなどのアゼルバイジャン各地の都市に反乱を招いた。この危機的状況の中、書記のムハンマド・アン=ナサウィーの尽力でアゼルバイジャンのトゥルクマーン人がホラズム軍の傘下に入り、密かに反乱を企てていたシャラフ・アル=ムルクが誅殺された。アシュラフらアイユーブ朝の王侯が同盟の要請を拒絶したため、一度は物資と資金が蓄えられているイスファハーンに戻ることを企てたが、アルトゥク朝の招きに応じてアーミドに向かった。しかし、マイヤーファーリキーン(現在のシルワーン(英語版))でモンゴル軍の奇襲を受けて従者の大部分を失い、追手を退けて辛うじて山地に逃亡した。山中で地元のクルド人に捕らえられ、殺害されかけるが身分を明らかにして褒賞を約束し、一度は危機を乗り切った。しかし、クルド人の集落に拘束された時、ホラズム軍に怨恨を持つ別のクルド人によって刺殺され、生涯を終える。
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