アナトリア、アルメニア、および北アフリカにおけるビザンツ帝国との戦争の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:08 UTC 版)
「アブドゥルマリク」の記事における「アナトリア、アルメニア、および北アフリカにおけるビザンツ帝国との戦争の再開」の解説
689年に締結された10年間の停戦条約の存在にもかかわらず、692年にアブドゥルマリクがイブン・アッ=ズバイルに対して勝利した後にビザンツ帝国との戦争が再開された。戦争行為の再開を決意したのはビザンツ皇帝ユスティニアノス2世であり、表向きにはビザンツ帝国の通貨であるノミスマではなく、同年に導入されたイスラーム通貨(後述)による貢納金の支払いの受入れを拒否したためとされている。この記録はテオファネスだけが残しているもので、その年代記の問題点を疑われていることもあり、すべての現代の研究者から真実と認められているわけではない。テオファネスと後世のシリア語の史料によれば、実際の開戦理由はユスティニアノス2世が条約に反してキプロスに対する管轄権を独占的に行使し、現地の住民をアナトリア北西部のキュジコスへ移住させようと試みたためである。条約によってビザンツ帝国が莫大な利益を確保していたことから、ユスティニアノス2世の決定はビザンツ帝国の人々に加えて現代の歴史家からも同様に批判を受けてきた。しかし、ラルフ=ヨハンネス・リーリエは、ユスティニアノス2世は内乱におけるアブドゥルマリクの勝利が明白となったことからカリフが条約を破棄するのは時間の問題だと考え、アブドゥルマリクがさらに地位を固めてしまう前に先制攻撃を決意したのではないかと推測している。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 698年にハッサーン・ブン・アル=ヌゥマーンの率いるアブドゥルマリクの軍隊がカルタゴを破壊し、「ローマ人によるアフリカ支配の最期であり二度と取り戻されることのない終焉」を迎えた。(カルタゴの遺跡、2013年) その後、アブドゥルマリクの命令によってカルタゴの近隣にチュニスが建設され、武器の貯蔵施設が備えられた。(ザイトゥーナ・モスク(英語版)のミナレットから眺めるチュニスの旧市街、2017年) ウマイヤ朝は692年に起こったセバストポリスの戦いでビザンツ帝国に大勝を収め、693年から694年にかけてアンティオキア方面に対するビザンツ帝国の反撃を阻止した。その後の何年かにわたってウマイヤ朝はアブドゥルマリクの弟のムハンマドと息子のアル=ワリード、アブドゥッラー(英語版)、およびマスラマ(英語版)に率いられたアナトリアとアルメニアのビザンツ帝国領に対する継続的な襲撃を開始し、カリフの後継者たちの下でのこれらの地域におけるさらなる征服の基礎を築いた。そして717年から718年にかけてのアラブ軍による二度目のコンスタンティノープルへの包囲でこの攻勢は最高潮に達した。 ビザンツ帝国ではユスティニアノス2世によって負担を強いられていた軍がその支配を打倒し、皇帝を失脚させたことで695年にヘラクレイオス朝が途絶え、その後の22年にわたる不安定な時代の開始を告げることになった。この期間中にビザンツ帝国の帝位が暴力的なクーデターによって7回入れ替わるという事態になり、この状況はアラブ側の進撃をさらに後押しした。698年か699年にビザンツ皇帝ティベリオス3世(在位:698年 - 705年)は、ユスティニアノス2世によって移住させられたキプロス人と、その移住後にアラブ人によってシリアへ追放されていたキプロス人を島へ帰還させることでアブドゥルマリクと合意を結んだ。アブドゥルマリクの弟のムハンマドは700年以降に一連の軍事作戦によってアルメニアを征服した。アルメニア人は703年に反乱を起こしてビザンツ帝国から支援を受けたものの、ムハンマドは反乱軍を破り、705年に反乱を起こしたアルメニア人諸侯を処刑して反乱を封じ込めた。この結果、アルメニアは同じコーカサス内のアルバニアやイベリアの諸侯国とともにアルミニヤ(英語版)地方としてウマイヤ朝に併合された。 一方で北アフリカではビザンツ帝国とベルベル人の連合軍が682年にウマイヤ朝のイフリーキヤ総督であったウクバ・ブン・ナーフィー(英語版)をヴェスケラの戦い(英語版)で破って戦死させ、イフリーキヤを再征服していた。アブドゥルマリクはアラブの支配を回復するために688年にウクバの副官であったズハイル・ブン・カイス(英語版)を起用した。ズハイルはマムスの戦い(英語版)でベルベル人の支配者であったクサイラ(英語版)を殺害するなど最初の成果を上げたものの、その後クサイラの一派によってバルカ(キレナイカ)へ追い返され、最後はビザンツ帝国の海軍の侵攻によって殺害された。695年にはイフリーキヤを奪回するために総勢40,000人の軍隊とともにハッサーン・ブン・アル=ヌゥマーンを派遣し、ハッサーンはビザンツ帝国領のカイラワーン、カルタゴ、およびビゼルトを攻略した。これに対してビザンツ軍は皇帝レオンティオス(在位:695年 - 698年)が派遣した海軍の増援部隊を得て696年か697年までにカルタゴを奪還した。しかし、最終的にビザンツ軍は撃退され、ハッサーンは698年にカルタゴを占領(英語版)して破壊した。ケネディの言葉を借りれば、この出来事は「ローマ人によるアフリカ支配の最期であり二度と取り戻されることのない終焉」を告げるものだった。カイラワーンはその後の征服活動のための拠点としてアラブ人よる強固な支配が維持された。さらに、強力なアラブ艦隊の設立に熱心であったアブドゥルマリクの命令によって港湾都市のチュニスが建設され、都市には武器の貯蔵施設が備えられた。ハッサーンはベルベル人に対する軍事活動を継続し、698年から703年の間にベルベル人を破ってその指導者であった女王のカーヒナ(英語版)を殺害した。その後、ハッサーンはエジプト総督のアブドゥルアズィーズによって解任され、ムーサー・ブン・ヌサイル(英語版)が後任となった。ムーサーはワリード1世の治世にウマイヤ朝による北アフリカ西部とイベリア半島の征服活動を指揮した。
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