ヘラクレイオス朝とは? わかりやすく解説

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ヘラクレイオス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:28 UTC 版)

東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「ヘラクレイオス朝」の解説

詳細は「ヘラクレイオス王朝」を参照 肖像名称生年在位期間即位背景没年 ヘラクレイオス FLAVIVS HERACLIVS AVGVSTVS Ηράκλειος 575年610年10月5日641年2月11日 アルメニア人貴族ヘラクレイオス息子カルタゴ総督であった父が皇帝フォカスに対して反乱起こしたヘラクレイオス息子)が610年10月首都コンスタンティノポリス艦隊率いて攻め寄せると、首都はわずか2日開城フォカス処刑され、代わってヘラクレイオス皇帝即位した641年2月11日 コンスタンティノス3世 Κωνσταντίνος Γ' Ηράκλειος 612年5月3日 641年2月11日641年5月24日 ヘラクレイオス長男で、先妻エウドキアの子父の死により即位遺言により異母弟ヘラクロナス共同統治が行われた。 641年5月24日 ヘラクロナス Ηρακλεωνάς 626年 641年2月11日641年9月 ヘラクレイオス4人目の子供で、後妻(姪)マルティナの子父の死後遺言により異母兄コンスタンティノス3世共同皇帝として即位即位4ヶ月ほどでコンスタンティノス急死しヘラクロナス単独皇帝となる。 641年コンスタンス2世“ポゴナトス” (髭が生えている) Κώνστας Β' Ηράκλειος 630年11月7日 641年9月668年9月15日 コンスタンティノス3世の子父の死後ヘラクロナス擁したマルティナ権力を掌握ようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民サーカス党派)の力によって、11歳共同皇帝となる。さらに元老院などの画策によってヘラクロナスらは廃位追放されコンスタンス単独皇帝となった668年9月15日 コンスタンティノス4世 Κωνσταντίνος Δ' ο Πωγώνατος 650年頃 668年9月15日685年 コンスタンス2世長男654年4月に父によって共同皇帝任じられる668年に父が暗殺される皇帝即位685年7月10日ユスティニアノス2世“リノトメトス” (鼻削がれ男) Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος 668年685年695年 コンスタンティノス4世長男父の死により即位する711年11月7日 レオンティオス Λεόντιος ? 695年 - 698年 イサウリア地方出身コンスタンティノス4世時代からテマ・アナトリコン長官として活躍ユスティニアノス2世によってアルメニア戦線投入されるなどしている。しかし皇帝不興買って692年頃に投獄された。695年赦免されて、テマ・ヘラスの長官任じられるサーカス党派力を借りてクーデター起こし皇帝捕らえて鼻を削いだ上でクリミア半島ケルソン追放し、自ら皇帝として即位した706年2月15日ティベリオス3世 Τιβέριος Γ' ο Αψίμαρος ? 698年705年8月 キビュライオタイの指揮官698年カルタゴ戦いでカルタゴ奪われクレタ島まで撤退してきた艦隊に擁されて反乱を起こすサーカス党派呼応したこともあってコンスタンティノポリス攻略しレオンティオス廃して皇帝即位706年2月15日? ユスティニアノス2世“リノトメトス” (復位) Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος 668年705年8月711年 削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、帝位への復帰公然と表明ハザール汗国逃れ可汗姉妹結婚。さらに第一次ブルガリア帝国のテルヴェル王が復位支持し、その力を背景にしてティベリオス3世打倒して復位711年11月7日 フィリピコス・バルダネス Φιλιππικός Βαρδάνης ? 711年 - 713年6月2日 ペルガモン出身アルメニア系人物。父のニケフォロスはパトリキオスという高い爵位をもっており、彼自身もパトリキオスだったとされている。ティベリオス3世によって一時ケファレニア島追放されていたが、ユスティニアノス2世によって召喚された。しかし711年ケルソンに再び追放されることとなり、この年ユスティニアノス2世復讐のためにケルソン派遣した艦隊同乗した。しかしこの艦隊ケルソン市民呼応してユスティニアノス2世反旗を翻すと、新たな皇帝として即位させたのである714年1月20日? アナスタシオス2世 Αναστάσιος Β' ? 713年6月3日 - 715年 フィリピコス・バルダネスの代には書記局長官を務めていた。だがフィリピコスに対する不満が高まってきたのを見て、他の高官たちとともに陰謀企画した。そしてフィリピコスの幽閉成功すると、その翌日聖ソフィア大聖堂即位719年7月1日 テオドシオス3世 Θεοδόσιος Γ' ο Αδραμμυττηνός ? 715年717年3月25日 アドラミュティオンの徴税役人アナスタシオス2世に対してテマ・オプシキオンが反乱を起こすと、反乱軍担ぎ上げられて対立皇帝とされた。反乱軍コンスタンティノポリス攻め寄せてその攻略成功したため、小アジア半島避難していたアナスタシオス2世降伏して退位したその結果皇帝となった。彼が皇帝となった理由として、実はティベリオス3世息子であったからであるとする有力な見解提出されている。 ?

※この「ヘラクレイオス朝」の解説は、「東ローマ帝国の皇帝一覧」の解説の一部です。
「ヘラクレイオス朝」を含む「東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事については、「東ローマ帝国の皇帝一覧」の概要を参照ください。

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