ヘラクレオポリス政権との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:00 UTC 版)
「エジプト第11王朝」の記事における「ヘラクレオポリス政権との戦い」の解説
上エジプト第4県にあるテーベは古王国時代には取るに足らない一村落に過ぎなかったが、従来の首都ヘルモンティスからテーベに上エジプト第4県の首都が移されたことから大発展を遂げていた。 マネトは第11王朝は16人のテーベ(ディオスポリス)の王からなるとしているが、個々の王名は記録していない。彼は各王朝が順次交代したかのように連続的に採番しているが、第11王朝の存立期間は大部分第10王朝と重複していると考えられる。 第11王朝の領域はアビュドス以南の地域に成立したと考えられる。テーベ州侯としてはメンチュヘテプ1世(英語版)の存在が知られているが、王を名乗るようになるのは彼の息子アンテフ1世の時代である。彼等によって第9王朝の末期か、第10王朝の初め頃に第11王朝が始まった。 テーベの北では第10王朝が上エジプト第20県の首都ヘラクレオポリス(英語版))を拠点として支配を広げており、また、テーベの更に南方ではヒエラコンポリス州侯アンクティフィが、エドフ州を支配下に収め、更にエレファンティネ州侯と同盟を結んで強力な勢力を築き上げていた。 第11王朝初期の領域はテーベ周辺のごく狭い領域に過ぎなかったが、アンテフ1世の兄弟アンテフ2世の時代にはアンクティフィの死の後にヒエラコンポリスからエレファンティネまでに至る地域の支配権を得る事に成功し、北方では第8県の都市アビュドスを征服して上エジプト第8県と第9県の間が北の国境線となった。彼は当時第10王朝の王であったケティ3世に対し勝ち誇った伝言を送っている。その後戦いは小康状態となり南北の間には休戦が齎された。このことについて第10王朝側で造られたと考えられる『メリカラー王への教訓』で、「南方(テーベを指す)との関係に注意せよ」とし、平和路線を指示するケティ3世の遺訓が残されている。 「...南部との関係を悪化させるな。これについての王都での予言は知っておろう。その通りのことが起るであろう。かれらはみずから述べた通りに(われわれの国境を)越えない。(中略)汝は南部との友好を保ち得よう。荷物担ぎたちは贈物を携えて汝の下へやってくる。余は先祖たちと同じように振舞った。(この故に、たとえ汝に)与えるべき穀物がな(かろうとも)、かれらは汝に忠順である。(なんと)すばらしいこと(か)。(故に)汝のパンとビールだけで満足しておけ。花崗岩は妨害されることなく汝の下へやってくる...」『メリカラー王への教訓』 だが第11王朝のメンチュヘテプ2世と第10王朝のケティ3世の後継者メリカラーの時代には再び戦端が開かれた。
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