ヘラクレイオスの反乱と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:37 UTC 版)
「フォカス」の記事における「ヘラクレイオスの反乱と最期」の解説
608年頃、カルタゴ総督ヘラクレイオスがフォカスに対して反乱を起こした。そして、総督ヘラクレイオスの同名の息子ヘラクレイオスが艦隊を率いてコンスタンティノポリスに迫る一方、息子ヘラクレイオスの従兄弟で総督の甥ニケタス率いる別動隊は609年にエジプトに侵攻した。そのためシリアの軍がエジプトに急派され、シリア国境線ががら空きになった。ペルシア軍が帝国領に本格的に侵入を開始するのはこれ以降である。コンスタンティノポリスではサーカス党派や、フォカスの婿のプリスコスなどの元老院議員が息子ヘラクレイオスに内通したため、610年10月に首都は開城した。フォカスは教会へ逃げ込んだものの引きずり出されて処刑されてしまい、息子ヘラクレイオスが皇帝に即位した(ヘラクレイオス王朝の成立)。
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