ヘラクレアの戦い(紀元前280年)とそれに続く交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:02 UTC 版)
「ピュロス戦争」の記事における「ヘラクレアの戦い(紀元前280年)とそれに続く交渉」の解説
詳細は「ヘラクレアの戦い」を参照 これ以前、ローマは地中海東側のヘレニズム諸国に対して軍事力を行使したことはなかった。 紀元前280年の執政官の一人であるプブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスは、大軍を率いてピュロスに向かって進軍し、途中ルカニアで略奪を行った。プブリウス・ウァレリウスはなるべくローマを離れて戦うことを望み、またピュロスに接近することで彼を驚かせることができると考えた。ローマ軍はルカニアの戦略的要衝を押さえ、ピュロスを支援しようとする勢力を押さえ込んだ。ピュロスはプブリウス・ウァレリウスに対し、自分はターレスとイタリック人を支援するために来たのであり、ローマとターレス、ルカニアおよびサムニウムとの問題解決を任せるように申し入れた。そうであれば、ピュロスはローマが受けた損害を、公正に補償する。ローマからのあらゆる告発に対して救済処置を講じるので、彼の決定に従ってほしい。もしローマがこれを受け入れれば、両者に友好関係が築けるが、そうでない場合は戦争になる、と。しかしプブリウス・ウァレリウスは、ピュロスがローマと他国との紛争の調停者となることを拒否した。ローマはピュロスを恐れてはおらず、戦争によって必要な賠償金を得るつもりである。ピュロスは誰が賠償金の保証人になるかを考えるべきである、と。さらには、ピュロスを元老院に招待し、問題を提示するように申し入れた。プブリウス・ウァレリウスはピュロスの偵察員を何人か捕らえたが、彼らにローマ軍の陣容を見せ、さらに多くの軍が到着するであろうと述べて、ピュロスのもとに送り返した。 ピュロスは未だ同盟軍と合流出来ず、自身の兵のみを率いていた。ピュロスはパンドシア(en)とヘラクレア(en)の間に野営地を設営した。続いて、ローマ軍野営地が遠くシリス川(en)沿いにあることを認めた。彼は同盟軍の到着を待つこととし、また敵地にあるローマ軍の補給が上手くいかないことを期待し、川の近くに前衛部隊を配置した。他方ローマ軍はピュロスの同盟軍が到着する前に決着をつけようと、渡河を開始した。ピュロスの前衛部隊は退却した。ピュロスは迷ったが、渡河途中でローマ軍を捕捉することを期待して、歩兵に戦列を組ませ、騎兵と共に前進させた。ローマの歩兵・騎兵の大軍が前進してくるのを見て、ピュロスは密集隊形を取らせて攻撃を開始した。ローマ軍騎兵が退き始めると、ピュロスは歩兵を呼んだ。戦闘は長時間にわたって決着が付かなかった。しかし、戦象が投入されるとローマ軍は押し返され、馬は驚愕した。ここでピュロスはテッサリア騎兵を突撃させた。ローマ軍は混乱し、駆逐された。 この際、戦象の1頭が負傷し、その鳴き声のために他の戦象も混乱に陥った。ゾナラスは、もしこれが起きなければローマ兵は全員が戦死していただろうと記している。このためにピュロスは十分な追撃ができず、ローマ軍は川を渡ってアプリア人都市に逃げ込むことが出来た。カッシウス・ディオは、「この一戦でピュロスの評判は上がり、中立を維持していた都市もピュロスの側についた。成り行きを見守っていた同盟軍も、ピュロスに合流した。これら同盟軍に対してピュロスは大っぴらに怒りを現しはしなかったが、まだ疑いを持っていた。彼らの遅参に関して幾分の叱責はしたが、受け入れた」と述べている。 プルタルコスは、ハリカルナッソスのディオニュシオスの記述を元に、ローマ兵15,000、ギリシア兵13,000が戦死したと述べている。しかしヒエロニュモス(同時代のギリシアの歴史家)は、ローマ兵の戦死は7,000、ギリシア兵は4,000が戦死したとしている。但し、ヒエロニュモスの原文自体は失われており、これに言及したディオニュシオスの原文もまた失われている。プルタルコスは、ピュロスはその最良の部隊を失い、また信頼していた将軍や友人も失ったと書いている。しかしながら、ローマの同盟都市のいくつかはピュロス側に寝返った。ピュロスはローマから60 kmまで行軍し、その途中で略奪を行った。また多くのルカニア兵やサムニウム兵も遅れてピュロス軍に合流した。ピュロスは自身の軍だけでローマ軍を打ち破ったことに満足していた。 カッシウス・ディオは次のように述べている。ピュロスはガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスと使節団が、捕虜の返還交渉のために近づいてきていると知った。ピュロスは護衛を境界付近まで派遣し、その後彼らと会合した。ピュロスはローマ使節を街に招きいれ、停戦を期待してもてなした。ファブリキウスは、捕虜の返還交渉のために来たと述べ、和平交渉の権限を与えられていないことを知ったピュロスは驚いた。ピュロスはローマとの友好関係と和平を求めており、身代金無しで捕虜を釈放すると言った。しかし、使節は交渉を拒否した。そこでピュロスは捕虜を返還し、ローマ元老院との交渉のためにキネアスをローマへと派遣した。キネアスは元老院に出席する前に、ローマの指導者を訪問することに時間を費やした。彼らの支持を得た上で、キネアスは元老院に出席した。そこで彼はローマとの友好と同盟関係を提案した。元老院は長時間の討議を行い、元老院の多くは停戦に傾いた。 ティトゥス・リウィウスとユニアヌス・ユスティヌスはカッシウス・ディオと同様に、キネアスがローマに派遣される前にガイウス・ファブリキウスと使節団がピュロスと会ったと述べている。リウィウスの『ローマ建国史』によると、ファブリキウスは捕虜の返還交渉を行い、キネアスの使命はピュロスのローマへの入城の準備と平和交渉であった。ユスティウスは、ファブリキウスが和平交渉を行い、キネアスのローマ訪問はその批准のためであったとする。彼はまた、キネアスの歓迎式の際には「誰の家も開いていなかった」と書いている 。プルタルコスは、その順序を逆にしている。即ち、キネアスのローマ訪問の後にガイウス・ファウリキウスが率いる使節団が派遣された。ヘラクレアでの敗北後もローマの戦意を衰えておらず、またピュロスの軍の規模ではローマ占領は無理であったため、ローマとの和平を模索していた。さらに、勝利の後の和平は彼の評判を高めるであろう。キネアスは捕虜の返還を申し出、ローマのイタリア半島内での周辺地域の征服を支援し、それに対する見返りはターレスとの友好と免責だけであるとした。 イタリック人の合流によりピュロスの軍の兵力が増大していたため、元老院議員の多くは和平(プルタルコスによる)または休戦(カッシウス・ディオによる)に傾いていた。しかし、高齢で盲目のため家に閉じこもっていたアッピウス・クラウディウス・カエクスが担架に乗せられて登院し、ピュロスは信頼できず、和平(または休戦)はローマに有利ではないと主張した。キネアスに対して直ちにローマを去り、ピュロスが和平を望むならそれはエペイロスに帰国してから提案すべきと伝えよ、と述べた。結局、元老院は全会一致でキネアスを去らせ、ピュロスがイタリアに留まる限り戦争を継続することと決定した。 アッピアノスは、元老院が執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスのために2個軍団の編成を命じたと書いている。また、まだローマにいたキネアスがローマ市民が続々と入隊するのを見て、ピュロスに対して「まるでヒュドラー(多数の首を持ち、1本を切り落としても、すぐにそこから新しい2本の首が生えてくる怪物)と戦っているようなものだ」と言ったとも伝えられる。他の資料では、もう一人の執政官ティベリウス・コルンカニウスがエトルリアから軍を率いて合流したため、もはやローマ軍の兵力が自軍の兵力を上回ったことをピュロスが認めたと記している。アッピアノスはまた、キネアスがローマは将軍たちの街であり、多くの王がいるようなものだと言ったと記している。ピュロスはローマへ向かう途中で略奪を行った。ピュロスはアナーニへと達したが、多くの戦利品を運んでいたために、戦闘を延期することを決定した。その後カンパニアへ向かい、そこで冬営に入った。フローラス(en、1世紀末から2世紀初めの歴史家)は、ピュロスがリリス川沿岸とローマの植民都市であるフレゲッラエ(en)を破壊し、ローマから僅か20マイルであるプラエネステ(現在のパレストリーナ)に達し、そこをほぼ占領したとする。プルタルコスは、キネアスがローマ軍の兵力をヘラクレアの戦いの際の2倍で、さらに「何倍ものローマ市民が武器を持つことが出来る」と推定したと記している。ユスティヌスはキネアスがピュロスに対して「交渉はアッピウス・クラウディウスによって決裂となり」、ローマは王達の街のようだと言ったと書いている。 カッシウス・ディオはピュロスのローマへの進軍に関して異なった説を唱えている。彼によるとピュロスはティレニア海を通った。プブリウス・ウァレリウス・ラエウィニウスは、ピュロスがカプアを占領してそこを根拠としようとしてることを察した。ピュロスはネアポリス(現在のナポリ)近くに上陸したが、達成できたものはなにもなく、そこを通過してエトルリアへ向かい、エトルリア人を助けてローマに勝利させようとした。ゾナラスによると、ピュロスはエトルリアがローマと講和し、執政官ティベリウス・コルンカニウスが彼に向かって来ており、もう一人の執政官ラエウィニウスが彼の足元を脅かしていることを認めた。ピュロスは全方向から遮断されてしまうことを恐れた。このため彼は撤退し、カンパニアに近づいた。ラエウィニウスがさらに大きな軍を率いてピュロスに相対し、ローマ軍団は切り刻まれたとしてもヒュードラのように再生すると宣言した。ピュロスは戦闘を避けてターレスに撤退した。カッシウス・ディオとゾナラスの本は、現在では断片的にしか残っていないため、これらが起きた日時は不明である。おそらくはキネアスがローマへ向かった後のことと思われる。カッシウス・ディオはローマが新たな軍をラエウィヌススに送り、ピュロスの後を追って嫌がらせ攻撃を実施したと述べている。またティベリウス・コルンカニウスをエトルリアから呼び戻し、ローマの防衛を任せた。 ユスティヌスによると、ローマはいくつかの使節団をプトレマイオス朝エジプトのファラオであるプトレマイオス2世に派遣している。
※この「ヘラクレアの戦い(紀元前280年)とそれに続く交渉」の解説は、「ピュロス戦争」の解説の一部です。
「ヘラクレアの戦い(紀元前280年)とそれに続く交渉」を含む「ピュロス戦争」の記事については、「ピュロス戦争」の概要を参照ください。
- ヘラクレアの戦いとそれに続く交渉のページへのリンク