平和交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 17:24 UTC 版)
フランス軍が倒されたことで、フランソワ1世は平和交渉をはじめた。正式な交渉は1529年7月、カンブレーではじまった。しかし、その主役は2人の王ではなく、その女性親族であるネーデルラント総督マルグリット大公女(カール5世の叔母)と、フランス王フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワだった。この2人が交渉に当たり、条約を締結させたことから、その平和条約は貴婦人の和約と呼ばれる。条約の内容は3年前のマドリード条約をほぼ踏襲する形となっていた。フランソワはフランドル、アルトワ、トゥルネーの宗主権を放棄した。カール5世の政府の監視下に置かれてマドリードで人質生活を送っていたフランソワ1世の2人の息子、フランソワとアンリは200万エキュの身代金と引き換えに解放された。 しかし、マドリード条約と違い、フランソワ1世にとって屈辱的であるブルゴーニュ公国放棄は取り消された。また、ブルボン公の処遇に関する条項も本人が戦死したことで自然消滅した。このカンブレーの和約は8月5日に署名され、フランスが戦争から脱落した。 ジェノヴァにいたカール5世は次にボローニャで教皇と会談した。教皇はローマ略奪に参加した兵士を許し、カール5世の戴冠を認めた。その対価として教皇はラヴェンナとチェルヴィアを得た。これらはヴェネツィア共和国がカンブレー同盟戦争のマリニャーノの戦い(英語版)の勝利で得た領地を保持するためにカール5世に献上した土地である。最後に、フランチェスコ・マリーア1世は90万スクーディ(英語版)を支払うことでミラノへ戻ることを許された。ヴェネツィアの反対でカール5世のアレッサンドロ・デ・メディチをミラノ公に就かせる計画がお流れになったためである。
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