コニャック同盟戦争とは? わかりやすく解説

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コニャック同盟戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 17:24 UTC 版)

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コニャック同盟戦争
イタリア戦争

1529年から翌年にかけてのフィレンツェ包囲戦英語版
1526年 - 1530年
場所 イタリア
結果 神聖ローマ帝国とスペインの勝利
衝突した勢力

フランス王国

教皇領

ヴェネツィア共和国
フィレンツェ共和国
ミラノ公国

 イングランド王国

 神聖ローマ帝国
スペイン王国

ジェノヴァ共和国
指揮官

コニャック同盟戦争(コニヤックどうめいせんそう、: Guerra della Lega di Cognac: War of the League of Cognac)は、1526年から1530年まで起きた、神聖ローマ皇帝カール5世とコニャック同盟(フランス王国教皇クレメンス7世ヴェネツィア共和国ミラノ公国フィレンツェ共和国イングランド王国)の間の戦争である。イタリアをめぐる戦いの末、カール5世が勝利した。

背景

1526年1月、マドリード条約の締結で第三次イタリア戦争が終結した。フランスの惨敗に危機感を覚えた教皇クレメンス7世ヴェネツィア共和国とともに対神聖ローマ帝国の同盟を模索した。その2か月後、フランス王フランソワ1世は解放され、マドリードからフランスに戻り、すぐにクレメンス7世の同盟構想に賛意を示した。これにイタリア諸国も賛同して、コニャック同盟が成立した。同盟には教皇、フランス、ヴェネツィアの他にはミラノ公国スフォルツァ家フィレンツェ共和国が参加したが、イングランド王国は不参加だった。イングランド王ヘンリー8世が主導権を得られなかったことに不満だったからである[1]

経過

初期の戦い

開戦してすぐ、コニャック同盟はローディを占領した。しかし、皇帝軍がロンバルディアに侵入すると、スフォルツァ家ミラノから追い出した[2]。これを好機と見たコロンナ家ローマを攻撃して、1526年3月に同市を占拠したが、賠償金が支払われると引き揚げた[3]

ローマ略奪

ロンバルディア侵攻に続いて、カール5世はゲオルク・フォン・フルンツベルク率いるランツクネヒト軍とブルボン公シャルル3世率いるスペイン軍をピアチェンツァで合流させ、ローマへ進軍した。教皇軍の指揮官フランチェスコ・グイチャルディーニは皇帝軍を押し止めるができず[4]、ブルボン公が戦死すると給料の支払いが悪かった配下の兵たちはローマを略奪した。教皇はなすすべもなく逃げた。

ナポリ包囲戦

ローマ略奪での失態により、クレメンス7世は発言力を大きく落とした。教皇軍の脱落でフランスは恐慌になり、フランソワ1世はやむなくヘンリー8世との同盟交渉を再びはじめた。1527年4月30日、ヘンリー8世とフランソワ1世の間でウェストミンスター条約が署名された。ようやくイングランドを同盟に引き入れたフランスはロートレック伯爵英語版ペドロ・ナヴァロ英語版ナポリへ派遣した。2人の率いるフランス軍は途中でジェノヴァを通るとアンドレア・ドーリアも仲間に引き入れた。フランス軍はナポリに到着すると市を包囲した[5]

ジェノヴァの裏切り

しかし、ドーリアはすぐにフランスを裏切り、カール5世に雇われた。ナポリの包囲も疫病の流行でロートレックもナヴァロも病死したことで解体した。ジェノヴァはなおもフランス軍の拠点にとどまったが、それもアンドレア・ドーリアに包囲され、サヴォーナでの投降を余儀なくされた。ランドリアーノの戦い英語版で救援に来たサン=ポル伯フランソワ1世が大敗すると、フランソワ1世のイタリア支配の野望は潰えた[6]

平和交渉

フランス軍が倒されたことで、フランソワ1世は平和交渉をはじめた。正式な交渉は1529年7月、カンブレーではじまった。しかし、その主役は2人の王ではなく、その女性親族であるネーデルラント総督マルグリット大公女(カール5世の叔母)と、フランス王フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワだった。この2人が交渉に当たり、条約を締結させたことから、その平和条約は貴婦人の和約と呼ばれる。条約の内容は3年前のマドリード条約をほぼ踏襲する形となっていた。フランソワはフランドルアルトワトゥルネーの宗主権を放棄した。カール5世の政府の監視下に置かれてマドリードで人質生活を送っていたフランソワ1世の2人の息子、フランソワアンリは200万エキュの身代金と引き換えに解放された[7]。 しかし、マドリード条約と違い、フランソワ1世にとって屈辱的であるブルゴーニュ公国放棄は取り消された。また、ブルボン公の処遇に関する条項も本人が戦死したことで自然消滅した[8]。このカンブレーの和約は8月5日に署名され、フランスが戦争から脱落した。

ジェノヴァにいたカール5世は次にボローニャで教皇と会談した。教皇はローマ略奪に参加した兵士を許し、カール5世の戴冠を認めた。その対価として教皇はラヴェンナチェルヴィアを得た。これらはヴェネツィア共和国がカンブレー同盟戦争マリニャーノの戦い英語版の勝利で得た領地を保持するためにカール5世に献上した土地である[9]。最後に、フランチェスコ・マリーア1世は90万スクーディ英語版を支払うことでミラノへ戻ることを許された。ヴェネツィアの反対でカール5世のアレッサンドロ・デ・メディチをミラノ公に就かせる計画がお流れになったためである[10]

フィレンツェ陥落

皇帝軍がフィレンツェを鎮圧したことで支配者となったアレッサンドロ・デ・メディチ

フィレンツェ共和国だけはオラニエ公フィリベール・ド・シャロン英語版率いる皇帝軍に抵抗し続けた。1530年、フランチェスコ・フェルッチョ英語版が指揮したフィレンツェ軍と皇帝軍がガヴィナーナの戦い英語版で決戦し、オラニエ公を戦死させたが、戦い自体は皇帝軍が決定的な勝利をつかめ、その10日後に共和国が投降した。フィレンツェが鎮圧されたことで、アレッサンドロ・デ・メディチがフィレンツェ公となった。

脚注

  1. ^ Guicciardini, History of Italy, 369.
  2. ^ Blockmans, Emperor Charles V, 60.
  3. ^ Guicciardini, History of Italy, 372–375.
  4. ^ Guicciardini, History of Italy, 376.
  5. ^ Blockmans, Emperor Charles V, 61.
  6. ^ Blockmans, Emperor Charles V, 63.
  7. ^ Blockmans, Emperor Charles V, 68; Hackett, Francis the First, 356.
  8. ^ Blockmans, Emperor Charles V, 67.
  9. ^ Norwich, History of Venice, 443–444.
  10. ^ Blockmans, Emperor Charles V, 64.

参考文献

  • Arfaioli, Maurizio. The Black Bands of Giovanni: Infantry and Diplomacy During the Italian Wars (1526–1528). Pisa: Pisa University Press, Edizioni Plus, 2005. ISBN 88-8492-231-3.
  • Baumgartner, Frederic J. Louis XII. New York: St. Martin's Press, 1994. ISBN 0-312-12072-9.
  • Black, Jeremy. "Dynasty Forged by Fire." MHQ: The Quarterly Journal of Military History 18, no. 3 (Spring 2006): 34–43. ISSN 1040-5992.
  • Blockmans, Wim. Emperor Charles V, 1500–1558. Translated by Isola van den Hoven-Vardon. New York: Oxford University Press, 2002. ISBN 0-340-73110-9.
  • Guicciardini, Francesco. The History of Italy. Translated by Sydney Alexander. Princeton: Princeton University Press, 1984. ISBN 0-691-00800-0.
  • Hackett, Francis. Francis the First. Garden City, New York: Doubleday, Doran & Co., 1937.
  • Hall, Bert. Weapons and Warfare in Renaissance Europe: Gunpowder, Technology, and Tactics. Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1997. ISBN 0-8018-5531-4.
  • Hibbert, Christopher. Florence: The Biography of a City. New York: W. W. Norton & Company, 1993. ISBN 0-393-03563-8.
  • Konstam, Angus. Pavia 1525: The Climax of the Italian Wars. Oxford: Osprey Publishing, 1996. ISBN 1-85532-504-7.
  • Norwich, John Julius. A History of Venice. New York: Vintage Books, 1989. ISBN 0-679-72197-5.
  • Oman, Charles. A History of the Art of War in the Sixteenth Century. London: Methuen & Co., 1937.
  • Phillips, Charles and Alan Axelrod. Encyclopedia of Wars. 3 vols. New York: Facts on File, 2005. ISBN 0-8160-2851-6.
  • Taylor, Frederick Lewis. The Art of War in Italy, 1494–1529. Westport, Conn.: Greenwood Press, 1973. ISBN 0-8371-5025-6.

コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)

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イタリア戦争」の記事における「コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)」の解説

詳細は「コニャック同盟戦争」および「貴婦人の和約」を参照 1526年5月22日教皇クレメンス7世神聖ローマ帝国勢力増大憂慮しコニャック同盟結成する同盟成員教皇領フランス王国イングランド王国ヴェネツィア共和国フィレンツェ共和国ミラノ公国だった。1527年コニャック同盟報復のため神聖ローマ皇帝軍がローマ攻める(ローマ略奪)。ローマ蹂躙され教皇庁屈服する一方ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家追放される1529年ジェノヴァカール5世支援を受け、フランス支配下脱するボローニャイタリア諸国メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まりカール5世服することを決める。オスマン帝国スレイマン1世による第一次ウィーン包囲9月 - 10月)。「貴婦人の和約」でフランス賠償金支払いイタリア放棄10月)。 1530年教皇クレメンス7世カール5世戴冠式を行う。フィレンツェ皇帝軍に包囲され凄惨な戦闘の末に敗北メディチ家復帰するメディチ家ハプスブルク家との結びつき深めフィレンツェ支配体制確立する。こうしてイタリアにおけるハプスブルク家優位確定する。これ以降フランスとの戦闘は続くが、覆ることはなかった。フランソワ1世カール5世対抗するため、カトリックであるにもかかわらずドイツルター派プロテスタント諸侯支援し異教徒オスマン帝国皇帝スレイマン1世ともひそかに同盟を結ぶ。1532年フランスシュマルカルデン同盟同盟

※この「コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)」の解説は、「イタリア戦争」の解説の一部です。
「コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)」を含む「イタリア戦争」の記事については、「イタリア戦争」の概要を参照ください。

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