第二次イタリア戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第二次イタリア戦争の意味・解説 

第二次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/17 20:07 UTC 版)

第二次イタリア戦争
イタリア戦争

ガリリャーノ川の戦い
1499年–1504年
場所イタリア
結果 カスティーリャ・アラゴンの最終的勝利[1]
衝突した勢力
1499年–1501年:
フランス王国
ヴェネツィア共和国
カスティーリャ・アラゴン
1499年–1501年:
ミラノ公国
ナポリ王国
1501年以降:
フランス王国
ヴェネツィア共和国
1501年以降:
カスティーリャ・アラゴン
指揮官
ルイ12世
ルイ・ダルマニャック
サルッツォ侯ルドヴィーコ2世
フェルナンド2世 (1499年–1501年)
チェーザレ・ボルジア
バーナード・ステュアート
ルドヴィーコ・スフォルツァ
フェデリーコ1世
フェルナンド2世
ゴンサロ・デ・コルドバ
フェルナンド・アンドラデ
ディエゴ・デ・メンドーサ
バルトロメオ・ダルヴィアーノ

第二次イタリア戦争(だいにじイタリアせんそう)は、1499年から1504年に起きた戦争で、第一次イタリア戦争に失敗したフランス王国による2度目の遠征を指す。歴史家はしばしばルイ12世のイタリア戦争、あるいはナポリ継承戦争と呼んでいる。

先の第一次イタリア戦争で敗北し、ナポリ王位簒奪に失敗したままにシャルル8世が死没すると、ルイ12世が新たな国王となった。彼は祖母ヴァランティーヌ・ヴィスコンティを通じてミラノ公国を支配していたヴィスコンティ家女系縁者であり、先王よりもイタリアに縁を持つ人物であった。先王の失敗を反省材料としてルイ12世は大国カスティーリャ・アラゴンヴェネツィア共和国と同盟を結び、外交情勢を整えつつ王位請求を再開した。

概要

ミラノ遠征

1489年、ヴェネツィア共和国とスイス誓約同盟ドイツ語版英語版(Eidgenossenschaft)との交渉を終えると、まずルイ12世は軍勢を動員してミラノ公国へと軍を進めた。前回とは異なり当初から敵対していたミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァに対し、甥から継承したその爵位を無効としてヴァランティーヌ・ヴィスコンティの孫たる自分に爵位を引き渡すように要求した。ルドヴィーコはスイス傭兵の動員も含めて戦力をかき集めようとしたが、自らの政敵であった傭兵隊長ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ英語版が率いるフランス王軍に敗北した(ノヴァーラの裏切りドイツ語版英語版)。勝利によってルイ12世はミラノ公爵を兼ねる立場となり、宿敵ルドヴィーコを捕縛したトリヴルツィオは王国元帥の称号を与えられた。

早期にミラノ公国併合を果たした後、ルイ12世は前回の戦いで反仏側に加わったカスティーリャ・アラゴンフェルナンド2世にナポリ王領分割を条件に自陣営へ引き入れようと画策した。1500年11月11日、フェルナンド2世とルイ12世はナポリ王国分割を定めたグラナダ条約に署名した。続いて1501年10月13日、今度は神聖ローマ帝国との間でトレント条約が結ばれ、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世からミラノ公国領有に関与しないとの約束を得た。

ナポリ遠征

同年中にカスティーリャ・アラゴンの援軍が南イタリアへ上陸、これに呼応してルイ12世もミラノから南下して敵軍を挟撃し、両軍はナポリ王フェデリーコ1世を退位させた。しかしフェルナンド2世は、最初からルイ12世にナポリ王位を譲る考えなどなかった。カスティーリャ・アラゴン軍はゴンサロ・デ・コルドバ将軍の援軍を呼び寄せ、またヴェネツィア共和国の軍司令官であったバルトロメオ・ダルヴィアーノ英語版を傭兵隊長として雇用するなど準備を進めていた。

1503年4月28日チェリニョーラの戦いでゴンサロ率いるカスティーリャ・アラゴン軍8000人は、フランス王軍3万2000人に攻撃を仕掛け、数で大きく上回っていたにもかかわらずフランス軍は散々に打ちのめされた。フランス軍はヌムール公ルイ・ダルマニャックが戦死に追い込まれ、4000人の死傷者を出して敗走した。

さらアルヴィアーノの援軍と合流して1万5000人にまで増大化したカスティーリャ・アラゴン軍は、フランス軍の残余2万3000人をガリリャーノ川において追撃、12月29日にフランス軍は8000人の死傷者と捕虜を出してさらに退却を強いられた(ガリリャーノ川の戦い英語版)。

結果

ミラノ領へと敗走したルイ12世は形勢不利を認めざるを得ず、既に認められているはずのスフォルツァ家の継承を再認するという最低限の条件で休戦(ブロア条約)を結んだ。リヨン条約でナポリ王はフェルナンド2世が兼ねることが宣言され、南イタリアを領域に含めたカスティーリャ・アラゴンはその勢力を大きく拡大した。

戦争終結からしばらくして、カスティーリャ・アラゴン及びナポリ王となったフェルナンド2世は家督継承権を持つ長女フアナ(唯一の男子であった長男フアンは死没)を故郷へと呼び戻した。フアナは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子フィリップと婚姻していた。やがてフェルナンドが病没すると王国の領有権はフアナ、ひいてはその息子であるカルロス1世へと継承される。

これによって、カスティーリャ・アラゴン(スペイン)、ナポリ、神聖ローマ帝国(オーストリア)という3つの国家がハプスブルク家の下に同君連合として結び付けられ、欧州に未曾有の超大国が出現することとなった。

出典

  1. ^ Treaty of Lyon 1503 / France ceded the Kingdom of Naples to Spain.

引用

  • Phillips, Charles and Alan Axelrod. Encyclopedia of Wars. New York: Facts on File, 2005. ISBN 0-8160-2851-6
  • Losada, Juan Carlos (2006). Batallas Decisivas de la Historia de España. Punto de Lectura. ISBN 978-84-663-1484-8
  • Montgomery, Bernard Law. A History of Warfare. New York: World Publishing Company, 1968. ISBN 0-688-01645-6
  • Batista González, Juan (2007). España Estratégica. Guerra y Diplomacia en la Historia de España. Sílex. ISBN 978-84-7737-183-0

外部リンク


第二次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)

イタリアの軍事史」の記事における「第二次イタリア戦争」の解説

詳細は「第二次イタリア戦争」を参照 シャルル8世親族ヴィスコンティ家縁戚でもあるルイ12世新たに国王に即位すると、1499年第二次遠征開始された。ルイ12世ヴィスコンティ家復位称してルドヴィコ・スフォルツァを幽閉してミラノ公国占領した。さらにトリナクリア王国領有する立場からナポリ王国への野心抱いていたカスティーリャアラゴン王国ナポリ分割打診ナポリ王国挟撃することで滅ぼした。 しかし元から全土占領考えていたカスティーリャ・アラゴン側は北進開始フランス軍チェリニョーラの戦いガリリャーノ川戦いで立て続け敗北し、再びイタリアから敗走した

※この「第二次イタリア戦争」の解説は、「イタリアの軍事史」の解説の一部です。
「第二次イタリア戦争」を含む「イタリアの軍事史」の記事については、「イタリアの軍事史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第二次イタリア戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二次イタリア戦争」の関連用語

第二次イタリア戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二次イタリア戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第二次イタリア戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイタリアの軍事史 (改訂履歴)、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS