第二次イタリア戦争
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第二次イタリア戦争(だいにじイタリアせんそう)は、1499年から1504年に起きた戦争で、第一次イタリア戦争に失敗したフランス王国による2度目の遠征を指す。歴史家はしばしばルイ12世のイタリア戦争、あるいはナポリ継承戦争と呼んでいる。
- ^ Treaty of Lyon 1503 / France ceded the Kingdom of Naples to Spain.
- 1 第二次イタリア戦争とは
- 2 第二次イタリア戦争の概要
- 3 引用
第二次イタリア戦争
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「イタリアの軍事史」の記事における「第二次イタリア戦争」の解説
詳細は「第二次イタリア戦争」を参照 シャルル8世の親族でヴィスコンティ家の縁戚でもあるルイ12世が新たに国王に即位すると、1499年に第二次遠征が開始された。ルイ12世はヴィスコンティ家の復位と称してルドヴィコ・スフォルツァを幽閉してミラノ公国を占領した。さらにトリナクリア王国を領有する立場からナポリ王国への野心を抱いていたカスティーリャ=アラゴン王国にナポリ分割を打診、ナポリ王国を挟撃することで滅ぼした。 しかし元から全土占領を考えていたカスティーリャ・アラゴン側は北進を開始、フランス軍はチェリニョーラの戦いとガリリャーノ川の戦いで立て続けに敗北し、再びイタリアから敗走した。
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第二次イタリア戦争
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「ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の記事における「第二次イタリア戦争」の解説
ゴンサロの新しい軍隊の実力を試す最初の機会は、フランスではなくオスマン帝国を相手に行われた。ゴンサロはナポリ王フェデリーコ4世(1世)とともにギリシャへ遠征し、オスマン帝国からケファロニアを奪い取った。1498年、ゴンサロはスペインに帰国し、エル・グラン・カピタンの称号を与えられ、またサンタンジェロ公爵に叙せられた。その後、国内で発生していたムーア人の反乱を鎮圧した。 1499年、教皇アレクサンデル6世と同盟を組んだフランス軍は、再びイタリアへの侵攻を開始、第二次イタリア戦争が開始された。フランス王ルイ12世は前回の教訓を活かし、敵対勢力を減らすためアラゴンに対してナポリ王国の分割を持ちかけた。アラゴン王(兼カスティーリャの共同国王)のフェルナンド2世はこれを受け入れ、1500年、フェデリーコ4世を退位させてナポリを分割した。しかしその実、フェルナンド2世は全土の獲得を狙っていた。 1501年、スペイン軍司令官に選ばれたゴンサロは、再びイタリアに上陸した。ゴンサロは明確な戦略を持って行動した。オファント川沿いの町バルレッタへ軍を進め、防衛に向いたこの地でキャンプを張り、その間にゲリラ戦に慣れた兵士たちを派遣してフランス軍の兵站線の断絶を狙った。敵が優勢である間は正面決戦を避け、フランス軍が挑発してきても決して乗らなかった。やがて兵站が苦しくなったフランス軍は、補給の望める地方へ軍を分散させた。この機を狙ってゴンサロは攻勢に移り、フランス軍の補給拠点であるチェリニョーラを急襲した。そして、有利な地形を選んで野戦陣地を築いた。フランス軍は部隊を集結させてチェリニョーラの奪還に乗り出した。1503年4月21日、両軍が相対し、チェリニョーラの戦いが生起した。
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