ブロワ条約 (1499年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ブロワ条約 (1499年)の意味・解説 

ブロワ条約 (1499年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/19 15:59 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
条約が締結されたブロワ城

ブロワ条約(ブロワじょうやく、フランス語: Traité de Bloisイタリア語: Trattato di Blois)は、1499年4月15日に締結された、ドージェアゴスティーノ・バルバリーゴの治下にあるヴェネツィア共和国ルイ12世の治下にあるフランス王国の間の条約。両国は第二次イタリア戦争において共闘してミラノ公国に侵攻することに同意した。

背景

フランス王ルイ12世は1498年に即位した後、先代のシャルル8世第一次イタリア戦争で行ったのと同じくミラノ公国を請求した。ルイ12世のミラノ公位請求の根拠は父方の祖母ヴァランティーヌ・ヴィスコンティがミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘にあたることにあった。ヴァランティーヌの異母弟フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ英語版が1447年に死去すると、黄金のアンブロシアーナ共和国英語版の時期を経て、ルイ12世の父シャルル・ドルレアンは公位の継承権を行使しようとしたが、ミラノ公位はフィリッポ・マリーアの庶出の娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと結婚したフランチェスコ・スフォルツァに奪われた。これにより公国はスフォルツァ家のものとなり、15世紀の終わりにはルドヴィーコ・スフォルツァがミラノ公となった。

軍事侵攻でミラノを奪取するつもりだったルイ12世はヴェネツィア共和国との同盟を選択した。ヴェネツィア共和国はフィレンツェ共和国に対抗しピサを守ったルドヴィーコを嫌っていた。

条約

条約により、フランスとヴェネツィアが軍事協力してミラノ公国に侵攻、ルドヴィーコ・スフォルツァを廃位することが定められた。ヴェネツィアはフランスに援軍を派遣する[1]代わりに、ミラノ領のクレモナジェーラ・ダッダイタリア語版アッダ川から40ファゾム以内の領地を除いて獲得する[2]。条約は戦争の勃発まで秘密条約とされた。

脚注

  1. ^ Frédéric Schoell: Cours d'histoire des états européens, p. 108 では歩兵4千、騎兵1,500としたが、フアン・デ・マリアナ英語版Historia general de España, pp. 15-16 ではヴェネツィア人兵士1,200人とスイス傭兵6千人とした。
  2. ^ フランチェスコ・グイチャルディーニ, イタリア史, pp. 167-169.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブロワ条約 (1499年)」の関連用語

ブロワ条約 (1499年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブロワ条約 (1499年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのブロワ条約 (1499年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS