次代のゆくえ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:17 UTC 版)
「イサベル1世 (カスティーリャ女王)」の記事における「次代のゆくえ」の解説
しかし、この時点ではまだスペインは一つの国ではなく、君主同士が結婚している状況であったため、イサベルの死後に相続問題が起きる原因になる。また、イサベルは自分が王妃ではなく女王でもあること、フェルナンドよりも年上であることを常に忘れなかったと言われる。フェルナンドとの子供たちはイングランドやポルトガルなど、各国の王族と政略結婚をするが、多くは不運な人生を歩んだ。 1497年、ハプスブルク家とは二重結婚を行った。フアン王太子が結婚早々に逝去し、次女フアナはフィリップ美公(フェリペ1世)との夫婦関係に苦しみ、後に精神を病んでしまう。1498年に長女イサベルが再婚後に産褥死し、その遺児ミゲルも1500年に夭折したため、次代の王位はフアナの夫の家系であるアブスブルゴ家に受け継がれることが確定的になる。 1501年11月には末娘カタリナがイングランドのアーサー王太子と結婚するが、翌年4月に死別する。イサベルは第二次イタリア戦争における、イングランドからの支援を期待し、カタリナをイングランドに留まらせた。1504年、第二次イタリア戦争での勝利を理由に、カタリナとアーサーの弟ヘンリー王子との再婚を、ローマ教皇ユリウス2世に非公開を条件に許可させたが、すぐにそれを反故にして、カタリナの将来におけるイングランド王妃の地位を確保した。 1504年11月26日、バリャドリッドのメディナ・デル・カンポの王宮にてその波乱の生涯に幕を閉じ、遺骸は遺言に従いアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬されたが、後にグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に改葬されている。 カスティーリャ女王の地位は、フアナが継承したが、1506年にフィリップと死別すると精神異常が顕著となり、1508年に父によって幽閉された。1516年、フェルナンドの崩御後、イサベルとフェルナンドの孫(フアナとフィリップの子)カルロスが後継者となり、形式上は各王号を保持するが、実質的には「スペイン国王」として統合された(正式な統合は1707年)。
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