相続問題
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「ニコラウス・レオポルト・ツー・ザルム=ザルム」の記事における「相続問題」の解説
ニコラウス・レオポルトと妻ドロテアの間には18人の子が生まれた。 ガブリエーレ・マリア・クリスティーナ・ルイーゼ(1720年 - 1792年) - トルンの修道女 ルートヴィヒ・カール・オットー(1721年 - 1775年) - ザルム=ザルム侯 ヴィルヘルム・フロレンティン・クラウディウス・ラモラル(1723年 - 1744年) エリーザベト・ルドヴィカ(1724年 - 1725年) ルイーゼ・フランツィスカ・ヴィルヘルミーネ・アンゼルミーナ(1725年 - 1764年) - 1743年ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・マンダーシャイト=ブランケンハイム=ゲロルシュタイン伯爵と結婚 マリア・クリスティーナ(1728年 - 1779年) - トルンとエルテン(ドイツ語版)の修道女 マリア・エリーザベト・ヨーゼファ(1729年 - 1775年) - 1751年エゴン・フランツ・エルヴァイン・フォン・シェーンボルン=ホイッセンシュタム伯爵と結婚 フランツ・ゲオルク・レオポルト(1730年 - 1731年) マリア・フランツィスカ・ヨーゼファ(1731年 - 1806年) - 1761年シュターレンベルク侯ゲオルク・アダム(ドイツ語版)と結婚 マクシミリアン・フリードリヒ・エルンスト(1732年 - 1773年) - ホーホストラーテン公 カール・アレクサンダー・エルンスト(1735年 - 1796年) - 1766年マリー・カタリーナ・レーアス・フォン・レーアスバッハ(Leers von Leersbach)と結婚 アウグステ・ゾフィー(1735年 - 1775年) - モンスの修道女 マリア・ヨーゼファ(1736年 - 1799年) - 1771年ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯カール・アルブレヒト1世と結婚 マリア・ヨーゼファ・ヘンリエッテ(1737年 - 1774年) マリア・アンナ・ヴィクトリア・ヴィルヘルミーネ(1740年 - 1816年) - 1758年第12代インファンタド公爵ペドロ・アルバレス・デ・トレドと結婚、スペイン首相・摂政会議議長第13代インファンタド公爵(英語版)の母 エマヌエル・ハインリヒ・ニコラウス・レオポルト(1742年 - 1808年) フランツ・ヨーゼフ・ヨハン・アンドレアス(1743年 - ?) - アントワネット・ド・メンブール(Maimbourg)と結婚 ヴィルヘルム・フロレンティン(1745年 - 1810年) - プラハ大司教 1751年にドロテアと死別する。2年後の1753年、亡き妻の5歳年下の妹クリスティーネと再婚した。クリスティーネはヘッセン=ローテンブルク方伯世子ヨーゼフの未亡人だった。1756年、2人はニコラウス・レオポルトの次男マクシミリアンと、クリスティーネの次女マリー・ルイーゼを結婚させた。 自身の築いたザルム=ザルム侯家の存続が安泰となるか心配していたニコラウス・レオポルトは、相続権を有する大勢の息子たちのために長大な遺言状を執筆し、後妻クリスティーネを遺言執行者に指名した。ニコラウス・レオポルトにとって不安の種だったのは、聖職者の道を進んだ長男ルートヴィヒの存在だったが、彼は父親が死ぬまでは聖職者のままであった。そのため、家内法に基づくザルム=ザルム家の世襲財産の相続権筆頭者は次男マクシミリアンであった。ところが1770年ニコラウス・レオポルトが死ぬと、長男ルートヴィヒが還俗して相続権を主張、弟マクシミリアンの相続に異議を唱えた。兄弟はウィーンの神聖ローマ皇帝に訴え出て、どちらが正統な相続人か長く係争を続けた。他の大勢の兄弟たちはそれぞれの都合で長兄と次兄の支持に回り、この争いを過熱させた。兄弟争いが最高潮に達したのは、ザルム=ザルム侯領の主都スノーヌ(英語版)で両者の武装した支持者が小競り合いを起こしたときである。 1771年6月5日、パリにて兄弟の和解が成立し、法廷闘争は調停の形で解決した。ルートヴィヒがザルム=ザルム侯領を継承し、マクシミリアンはホーホストラーテン公領をあてがわれた。ルートヴィヒは結局子供のないまま死に、マクシミリアンの遺児コンスタンティンがザルム=ザルム侯家の家督を継承した。
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