ザルム=ザルム侯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 03:54 UTC 版)
「ニコラウス・レオポルト・ツー・ザルム=ザルム」の記事における「ザルム=ザルム侯」の解説
1719年3月25日、18歳のニコラウス・レオポルトはアンホルト城(ドイツ語版)において、本家筋のザルム侯ルートヴィヒ・オットーの長女で17歳のドロテア・フランツィスカ・アグネス(1702年 - 1751年)と結婚式を挙げた。この結婚には彼のザルム侯位継承権をより強固なものにする目的があった。舅には男子がおらず、その死とともに最初のザルム侯家(altfürstliche Linie Salm)の男系は断絶することが確定していたためである。このカップルの結婚はザルム家の2つの分流を再結合させた。1738年舅が死ぬと、ニコラウス・レオポルトはヴォージュ山脈地帯のザルム侯領及びアンホルトの城と所領を相続した。1739年1月14日、彼は帝国諸侯の地位を認められた。1740年1月6日には、世襲のホーホストラーテン公爵位を授けられた。1743年10月16日、神聖ローマ皇帝よりザルム=ザルム侯(Fürst zu Salm-Salm)に叙爵された。これに伴い、公式称号は「ザルム侯、ザルム=ザルム侯、猟場伯及びライン伯(Fürst zu Salm, Fürst zu Salm-Salm, Wild- und Rheingraf)」となった。 ニコラウス・レオポルトはまた、ロレーヌ公領の相続請求を行い、フランス王ルイ15世と交渉したこともある。ポーランド継承戦争直後の1737年、本来のロレーヌ公フランツ・シュテファンがトスカーナ大公国の所有権と引き換えにロレーヌ公領をフランス王に譲渡し、フランス王はロレーヌを義父の元ポーランド王スタニスワフ・レシュチンスキに所領として授けた。ロレーヌ公領の一部に対するニコラウス・レオポルトの請求活動の結果、1751年ルイ15世は、17世紀初頭に女伯クリスティーヌとロレーヌ公フランソワ2世の婚姻以降ロレーヌ公領の一部となっていた上ザルム伯領の残り半分を、ニコラウス・レオポルトのザルム=ザルム侯領に移譲することを決定した。上ザルム伯領は法的・地理的には、フランス王国領に囲まれた神聖ローマ帝国領の飛び地となった。
※この「ザルム=ザルム侯」の解説は、「ニコラウス・レオポルト・ツー・ザルム=ザルム」の解説の一部です。
「ザルム=ザルム侯」を含む「ニコラウス・レオポルト・ツー・ザルム=ザルム」の記事については、「ニコラウス・レオポルト・ツー・ザルム=ザルム」の概要を参照ください。
- ザルム=ザルム侯のページへのリンク